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林泉集 建築写真 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

大正から昭和にかけて洪洋社から発売された建築写真集の中から林泉集をお届けします。もっぱら個人邸の庭が中心となった写真集です。何風といえばいいのでしょうか。東京の場合は明治初期の大火、関東大震災、第二次世界大戦の空襲と大火災をいくたびも経験していますので江戸情緒などといってもどの時代なのかイメージが定まりません。(江戸では大火が何回も記録されています)ただ見ると懐かしい気持ちにさせられるものも結構あります(笑)。関東大震災で陸軍本所被服廠跡地の資料を探しているときに隣接している安田善次郎邸の庭の写真を林泉で偶然発見しました。

発行日は昭和3年ですが安田善次郎邸の写真はあきらかに震災以前のものと推測されされます。
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秋田美人伝説 秋田美人 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

大正12前後の秋田県横手市近辺で撮影された女学生の豆写真をPDFに再編集したもの。以前ヤフオクで出品して購入者もいらっしゃったので評価用として公開します。時代を感じるでしょ(笑)持ち主と思われる方の写真を2回使っています。全部で27名。モー娘より迫力がありますよ。
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空から見た西日本 大阪朝日新聞 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

空から見た西日本
昭和5年3月に大阪朝日新聞の付録として配布した写真帳です。
全部で32ページあります。西日本の各地を複葉機で空中撮影をしたものです。さすがに3階建て以上の建物は少ないです。
14M強の容量ですので見るのに時間がかかるかもしれません。
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色彩映画のシナリオ 中井正一 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

中井 正一(なかい まさかず、1900年2月14日-1952年5月18日)は日本の美学者、評論家、社会運動家。広島県出身。
西田学派の流れを汲みつつ、中井美学と呼ばれる独自の美学理論を展開した。その理論は極めて広範多様な対象への実践的な視点で知られる。1936年に発表した代表的論文『委員会の論理』をはじめとして、その著作は戦前戦後を通じて、いわゆる進歩的文化人を中心に広く影響をあたえた。京都帝国大学文学部、相愛女子専門学校(現、相愛女子短期大学・相愛大学)講師。1948年、羽仁五郎の推薦で国立国会図書館副館長に就任し、その基盤確立に尽力した。中井は大学院進学後、恩師深田康算の依頼によって『哲学研究』の編集にかかわり、この頃よりカントからマルクスの研究へと関心を深めていった。深田の没後、『深田康算全集』の編集に参加。この時のメンバーを中心として1930年に『美・批評』を創刊。同誌は美術史研究を中心としながら、現象学、記号論、新カント派やフランクフルト学派などの思潮、新即物主義などの芸術実践を含めた幅広い視野を持っていた。中井自身も貴志康一らと実験的な色彩映画の製作を行うなど、著述にとどまらない活動を展開した。

いまでは当たり前となった映画も白黒からカラーへの過渡期があり総天然色映画などと言われた時代の論文です。発表された1951年の日本は米国の占領中でした。といっても本論文はシナリオ・ライターとしての色彩映画にたいする心得を述べたもので堅い内容ではありません(笑
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史料公開ニュース46号 防衛研究所 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

欠落分最後
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史料公開ニュース45号 防衛研究所 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

欠落分です
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史料公開ニュース43号 防衛研究所 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

欠落分です
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史料公開ニュース42号 防衛研究所 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

欠落分です
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史料公開ニュース1〜91号(7,42,43,45,46欠落) 防衛研究所 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

2000/5月〜2008/3月 までの91号 で7号がリンク切れ、42.43.45.46号がなんとセキュリティー処理されており連結ができませんでした。(政府系の公開資料では初めてなのでビックリ)内容は敗戦以前に書かれた軍関係の内部書類が中心です。公開資料の目録ですので興味のあるかたは参考情報リンクで防衛研究所に飛んで下さい(笑)3/27に公開された 『東アジア戦略概観』を覗きに行ったんですが面白い物を発見したという感じです。拙的に興味があったのはラバウルの自給自足体制の報告があり、面白そうだなぁ〜と思いましたが戦史オタクにはたまらない資料が公開されています。

目録だけの検索エンジンを作ろうかなぁとも思っていますがPDFでも検索ができますからね。
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日本三文オペラ 武田麟太郎 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年5月9日 - 1946年3月31日)
1929年に『文芸春秋』に「暴力」を発表しプロレタリア作家としての地位を築く。その後のプロレタリア文学への弾圧を経て、転向。西鶴の浮世草子の作風に学んだ「市井事もの」を著し、時代の庶民風俗の中に新しいリアリズムを追求する独自の作風を確立した。

昭和7年頃の雰囲気が臭ってきそうな極めつけの小説です。(49ページ)
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終戦前後 織田作之助 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

33歳で急逝した関西の文人 織田 作之助です。写真などを見るとうらやましくなるようはイイ男で太宰治とも交遊があったようです。林忠彦カメラマンが撮影した銀座ルパンでの太宰のポートレートは織田を撮影している最中に太宰に催促され撮影したものでしたが林忠彦氏の代表作になりました。この正直な文体がたまらなく好きです(笑)文中に大本教の教祖(戦前戦時と大弾圧を受けた。日本のモーゼたらんとした超人)の話が出てきてビックリしましたが流石に関西の話です(笑)何回読み直しても最初から最後まで笑えます。織田の既成の権威を信じていない考えが文中に滲み出ており、ソフトに笑わせる趣向になっています。
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脱亜論 福沢諭吉 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

福澤諭吉が執筆し発表されたと現在では考えられているが、原文は無署名の社説であり、執筆者は厳密には不明。
昭和8年(1933年)に慶應義塾編『続福澤全集〈第2巻〉』(岩波書店)に収録されたため、福澤の執筆した社説と
考えられるようになった。明治政府の富国強兵策である脱亜入欧の考え方にそっていると指摘されることがある。
しかしながら福澤諭吉は署名著作・時事新報論説のすべてにおいて「入欧」という言葉を一度も使用していない。
概ね儒教を廃して中華思想から脱却しようとする論調だが1884年12月に朝鮮で起こった親日派のクーデターで
ある甲申政変(こうしんせいへん)が失敗したことが論文の引き金になったという説が近年出てきている。
また執筆者は、「清・朝鮮が劣っている」とは一言も言及していない。 文明化を拒否し、旧態依然の体制に
のみ汲々とする両国政府を批判しているとの評価もある。
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カイロ宣言 連合国 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

1943年11月、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル
中華民国主席の蒋介石によってカイロ会談が行われ、その内容を踏まえて11月27日に署名、12月1日に
発表された声明が「カイロ宣言」と称される。カイロ宣言はその後、連合国の対日基本方針となった。内容は

米英中の対日戦争継続表明
日本の無条件降伏を目指す
日本への将来的な軍事行動を協定
満洲、台湾、澎湖諸島を中華民国に返還
朝鮮の独立
第一次世界大戦後に日本が獲得した海外領土の剥奪であり1945年のポツダム宣言の原型にあたる。
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大東亜戦争終結ノ詔書 昭和天皇 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

1945年(昭和20年)8月14日、御前会議において、ポツダム宣言の受諾が決定された。ポツダム宣言は、
「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(同宣言13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争(大東亜戦争)
において、日本が降伏することを意味した。御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ、
若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案は、そのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書
(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔を録音しNHKによる玉音放送を
阻止するべく陸軍の中堅将校がクーデターを起こそうとしたが天皇の聖断により陸軍の大勢は決していた。
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ポツダム宣言 米英支ソ四国共同 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、1945年7月26日のポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、
中華民国および英国の首脳が、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦(太平洋戦争)に関する13条から成る勧告の宣言。
「カイロ宣言」の条項を履行するのと同時に日本国の主権の及ぶ範囲を規定し更に旧大日本帝国憲法下でも民主主義的傾向があったと
記述している点では注目に値する。日本国内では国体(天皇制)の護持をめぐり紛糾したが天皇陛下の御聖断により受諾が決定した。
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日本改造法案大綱 北一輝 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

昭和11年に2.26事件を起こした青年将校を指導したとして連座して逮捕され
死刑を執行された思想家北一輝の代表的な著書「日本改造法案大綱」です。

作品は大正12年に出版されており軍人のみならず若手の官僚にも多大の影響を
与えたとされる書です。偏見を取りご覧になって下さい。果たしてこれが右翼と
言えるのか言えないのか微妙に思えてくるはずです。
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赤旗創刊号 日本共産党 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

非合法時代の日本共産党機関紙「赤旗」創刊号です。(1928年2月1日創刊)
文面の中に貧農という言葉が多いですが当時の労働人口の約50%が専業農家で地主によって耕作地を供与される小作という制度が
一般的でした。つまり現在と社会構造が全く異なっていた訳です。当時の共産党は日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、
寄生地主制と財閥による独占資本主義という3つのブロックの結合だと規定しており武力革命による体制転覆を標榜しておりましたので
官憲の徹底的な弾圧を受け太平洋戦争中は壊滅状態でした。

昭和3年頃に創刊されましたが大正末期から昭和初期に国内でもこのような考え方が出てきました。

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新軍備計画論 井上成美 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

最後の海軍大将井上成美が航空本部長時代に書き上げた新軍備計画論です。
これを書き上げたのが昭和16年という戦争直前でしたが戦局は井上氏が予見した内容で推移しました。
氏は戦前に海軍軍務局長という立場で米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国同盟条約締結に反対しましたが
その様子に海軍関係の新聞記者は米内・山本・井上ラインのことを「海軍左派」と呼んだそうです。
その後は第4艦隊司令長官となり世界史上初の航空母艦同士による珊瑚海海戦を指揮しましたが
江田島の海軍兵学校長に左遷され終戦近くになって再び米内光政が海軍大臣になってから海軍次官として軍政に復帰しました。

新軍備計画論を読むと理解できると思いますが日本海軍はアメリカと戦うようには作られていないのが理解できます。
氏の計画論の骨子である負けない体制作りをご覧ください。井上成美氏は 1975年(昭和50年)12月15日に永眠なさっております。

本論文は廃省となった海軍省の昭和16年に作成された公文書として公開しております。
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日映の思い出 坂口安吾 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

小説家。本名は炳五(へいご)。新潟市西大畑町に生まれる。幼稚園の頃より不登校になり、餓鬼大将として悪戯のかぎりを尽くす。1926(大正15)年、求道への憧れが強まり、東洋大学印度哲学科に入学するも、過酷な修行の末、悟りを放棄する。1930(昭和5)年、友人らと同人雑誌「言葉」を創刊、翌年6月に発表した「風博士」を牧野信一に絶賛され、文壇の注目を浴びる。その後、「紫大納言」(1939年)などの佳作を発表する一方、世評的には不遇の時代が続いたが、1946(昭和21)年、戦後の本質を鋭く把握洞察した「堕落論」、「白痴」の発表により、一躍人気作家として表舞台に躍り出る。戦後世相を反映した小説やエッセイ、探偵小説、歴史研究など、多彩な執筆活動を展開する一方、国税局と争ったり、競輪の不正事件を告発したりと、実生活でも世間の注目を浴び続けた。1955(昭和30)年2月17日、脳溢血により急死。享年48歳。小説の代表作は「紫大納言」「真珠」「白痴」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」など。エッセイの代表作は「FARCEに就て」「文学のふるさと」「日本文化私観」「堕落論」「教祖の文学」など。(J.M)

坂口安吾氏の映画界にたいする見方がおもしろい。
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弓町より 石川啄木 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

石川 啄木(いしかわ たくぼく)
1886-1912。詩人、歌人、評論家。本名一(はじめ)。岩手県の僧家に生まれる。与謝野鉄幹の知遇を得、詩人としてデビュー。代表作に、詩集『あこがれ』(1905)、歌集『一握の砂』(1910)など。大逆事件を契機に社会主義思想に目ざめたが、肺疾患と窮乏のうちに死んだ。

作品について:弓町よりは口語による新体詩にかんする随筆。啄木の著書の中では非常に珍しい内容で創造上の悩みを書き綴っている。

函館、札幌、小樽、釧路、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階
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二・二六事件に就て 河合栄治郎 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

二・二六事件に就ての河合栄治郎の随筆。
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颱風雑俎 寺田寅彦 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

颱風雑俎は寺田寅彦の随筆で昭和9年の室戸台風の論説。
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明治21年の小学校教科書 国定教科書 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

昔の教育は尋常小学校で教育が終わるのことが多かったようです。そこで明治期の北海道をどのように取り上げているか抜粋してみました。90ページ近くの書籍ですが、わずか2ヶ所です。一般認識ではこの程度だったんですね。しかし蝦夷島とか言ってるし(笑
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北海道人口(明治5年) 北海道 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

明治5年に行われた北海道人口です。現在の北海道庁が置かれている石狩国よりも渡島国、後志国、胆振国、日高国の方が人口は多かったようです。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載
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亡び行く江戸趣味 淡島寒月 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

淡島 寒月(あわしま かんげつ)
本名:淡島宝受朗、安政6年10月23日(1859年11月17日) - 1926年(大正15年)2月23日)は、明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉に紹介したエピソードで有名である。収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には三千あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。

作品について:亡び行く江戸趣味
玩具の10大特性,江戸の花火屋,江戸舞台の特長を論じるオタクならではの随筆。
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カメラに関する覚え書 伊丹万作 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

伊丹 万作(いたみ まんさく、本名・池内義豊)
1900年1月2日 - 1946年9月21日)は、昭和、第二次世界大戦前に活躍した映画監督。日本映画の基礎を作った名監督の一人である。

作品について:カメラに関する覚え書
自殺した伊丹十三監督のおとうさんで戦前に監督やシナリオ・ライターとして活躍していました。映像に携わるかたはこの論文が決して古い命題ではなく恒久的なテーマであることがお判りになると思います。監督の役割、カメラマンの役割をこれだけ簡潔に表現しているテキストはあまりありません。
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明治十年前後 淡島寒月 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

淡島 寒月(あわしま かんげつ)
本名:淡島宝受朗、安政6年10月23日(1859年11月17日) - 1926年(大正15年)2月23日)は、明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉に紹介したエピソードで有名である。収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には三千あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。

作品について:明治十年前後
明治十年前後の小説界の傾向を随筆。職人的な気質を持つ日本式オタクの元祖のような存在(笑)で管理人が追っかけ中の人物。随筆は少なくなく全てに唸らせる内容でこの文も明治維新以降の価値観が洋高東低に転倒した様が触れられており面白い。
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最終戦争論 石原莞爾 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

石原氏はフランス革命前後の戦史研究で有名だがこの最終戦争論では航空兵力が決戦兵器と予測したり原爆の予言をしている。神懸かり(仏懸かりか?)的なところは流すとしてもこの論文が発表されたのは太平洋戦争の1年半前以上で独ソ戦もまだ始まっていない。皇国史観はその時代なので多少の違和感はあったとしてもその戦略眼は教えられるものがある。昭和15年に日本の現代物理学の父といわれる仁科 芳雄先生が航空技術研究所からウランを用いた新型爆弾の開発研究を要請され理論的可能性の検討に入っている。これを知っていたとすれば納得がいくが新型爆弾投下後の都市表現が超リアルで怖い。423ページもある。
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ハイパー小倉百人一首 小倉百人一首 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

小倉百人一首と作者名にWikiをリンクした歌集です。
北海道では下の句かるたという、木(板かるた)に百人一首の下の句だけを書いた独特のかるたがあります。発祥は福島県説が有力です。
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日米安全保障条約 日本国 PDFで視聴 wiki 参考情報リンク  

日米安全保障条約はサンフランシスコ講和条約の調印後に米国との間に結ばれた軍事条約です。この条約の凄いところは日本国が基地(土地)を貸与することで米軍が駐留し結果的に日本が保護されるだけという条約です。米軍の権利として「日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため」軍事介入をすること、駐留する軍隊は極東(東アジア)における国際の平和と安全の維持に寄与する目的の極東条項が挿入され更に日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして第三国に基地を貸与する拒否権がありました。また核兵器の持ち込みなどの事前協議の義務もアメリカになく条約の有効期限も定められていない特異のものでした。極めつきは米軍軍人、軍属、家族が犯した犯罪の裁判権も米国に与えられていることです。これではまるで植民地と変わりなく主権国家同士の同盟条約と見るには困難です。この条約には吉田茂しかサインしておりません。

当時アメリカは国連軍として朝鮮戦争を行っており日本国も占領7年目という状況でのサンフランシスコ講和条約でソ連や中国を除いた部分的講和条約ということで各国と講和しています。日米安全保障条約はアメリカ軍部の強い要望で結ばれましたが日本国も早期独立の思惑が一致し小笠原、沖縄等の信託統治権をアメリカに与えてまでもサンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約が締結されたように見えます。

戦争のための軍備放棄=平和憲法=自衛権を行使するために他国との条約=他国軍隊の駐留

この図式を描いて軍事費に国家予算を注入せず(米国にただ乗りして)経済的な政策を主軸に置いた吉田茂にとっては選択肢がなかったと偲ばれますが戦後50年以上を経て憲法改正を含めて様々な論議が出て来ております。上記の図式には更に面白い説があり吉田は立憲君主制のなかで天皇を守るために東アジアにて永遠に日本の軍事力に蓋をしたいマッカーサーの思惑と暗黙の取引があったのではないかという話があります。ところが米国の意図とは違って朝鮮戦争が勃発し冷戦が本格化した段階で吉田は平和憲法を盾に取りアメリカの再軍備要請を拒否し(交渉相手はダレス)安保条約を結んだという説です。再軍備(軍国主義)を本能的に拒否する社会党左派は護憲に力を入れ日本国内は憲法改正等のコンセンサス統一には至りませんでしたが見方を変えるだけで歴史は俄然面白く見えてきます。
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