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愛宕念仏寺の約1200石像羅漢に癒される


   

京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町(きょうとし うきょうく さが とりいもと ふかたにちょう)にある愛宕念仏寺(おたぎ ねんぶつじ)に訪れた。

京都市嵯峨野にある愛宕念仏寺に訪れた。ここには約1200体の石像羅漢が奉納されている。これらの羅漢は一つ一つ表情が違うため知人に似た人に会えると言われている。この石像羅漢が作られたのは最近の事で1981年から1991年の事であったと聞いた。参拝者(素人)が自ら彫って奉納する羅漢彫りプロジェクトの一環だったようで目標五百体が1991年の段階で1200体まで膨れ上がったそうだ。

海外でも知られているらしく撮影中も様々な外国人のツアーが訪れていた。ここに訪れようと思ったのは20世紀終盤に生きていた参拝者が思いを込めて彫った石像羅漢が約1200体収められているという事に尽きた。今後これらの石像群は、彫った市井の人たちが思いもよらない時間を旅し、彫った人たちの思いを後世に伝えるいわば伝説の場所になろうとしている。

寺院の新しい装置のような感覚があり強烈なオリジナリティに惹かれのが訪れた理由でもある。

大阪万博公園にも春が来た 2016


   

継続中のレンズテストは所を変えて大阪万博公園で継続している。

プライベートの旅行で大阪の娘夫婦の家に寄せてもらい天気を見ながら撮影を行っている。LEICA D VARIO-ELMAR 14-150mm/F3.5-5.6 ASPH./MEGA O.I.S.は昨年度の夏に購入する予定だった換算28-300mmの便利ズームで、元々MFT(マイクロフォーサーズ規格)の一つ前の規格であるフォーサーズ規格だった時代のレンズでMFTでは変換アダプターを使う事でかろうじてAF性能を維持している。

計画がずれたのは、昨年度は雨の撮影が多かったため筆者が切れてしまい便利ズームの防塵防滴レンズに変更したためだ。そのバックアップ用のレンズの性能も今様の仕様としては優れものだったので防塵防滴性能のアドバンスもあり暫くリュックに同伴していく事になるだろう。

さて一度使ったら戻れなくなると言われているライカの便利ズームはどのようなものかがずぅ〜っと気になっていた。このレンズは10年近く前に販売されているが、ちょうどその頃、報道を中心にPanasonicのビデオカメラが地方局に急速に導入された時期がありライカとPanaの提携の始めとしてレンズの監修をライカが行っていた。Panaの言い方としてはこの放送用ビデオカメラのレンズはそんじょそこらにあるものとは違うなどと喧伝していた。

LEICA D VARIO-ELMAR 14-150mm/F3.5-5.6は放送用のフランジバックが連動してズームしてもピントがずれない仕様でもなく、絞りも放送用と較べたら苦しいぐらい暗い。あとは写りがどのように違うのだろうかとの純然たる興味しかない。結論を先にいうとビデオカメラに使われているレンズとは全然ちがう発想で作られているのだろうとの感触だった。

解放近くで見ると明らかに中心部分の解像感が強く周辺はさほどでもない。この解像感の違いで浮き上がり感を持たしているのかなぁとの印象である(勿論絞ると周辺の解像感は上がる)他との比較で言えば色のノリが心配になるほど良い。また中望遠から望遠にかけて解像感が増えたように感じる。はっきり言うとクセがあると言える。

現時点では使い込んでみようとしか考えが思い浮かない。これだけのクセがあるといい写像、どうしようもない写像が歩留まりとして目立って来そうだが、動画は写真のように連写していいものを選べる作業には向いていないためこの辺の兼ね合いが使い込んで行くうちに判明するだろう。

最初の使用感は重いというのに尽きたが(笑

西山の里に春が来た


   

3月の下旬に西山の里で撮影を行った。桜は来週あたりに満開になりそうだ。

撮影日はライカのズームレンズのテスト予定だったが、このオリンパスの単レンズの性能に息を飲み結局、ズームテストは後日にし、このレンズでの撮影を優先した。解像感というより解像度そのものという写像がファインダーに現れた。単レンズの凄さである。

概算でNDを24~26程かまし昼間でもF1.8が維持出来るようにした。つまり全カットF1.8の撮影を行っている。解放から使えるという触込みと、どのあたりから崩れて行くかの確認のためで、総じて逆光にはちょっと弱いとの結論を出したが、大方のレンズはその傾向にあり、きちっとハレ切れをすれば撮影に耐えられるものが多い。

副次的に25mm/f1.8(35mm換算50mm)のレンズ1本でさらっとまとめる事ができて嬉しかった。カメラメーカーでは50mmを標準レンズとして設定しているところが多い。それは学説にも寄るが人間の見た目と50mmの画角が近いという説に拠っている。この場合1本で撮影するということはカット構成に合わせてカメラがマメに立ち位置を変えて画角を合わせる作業に他ならない。

本来ならば対象が同じ大きさでもレンズの画角により背景の広さに変化が生じる。24,35,50,80mmのレンズを使い対象を同じ大きさに撮影しても背景の広がり方が全然異なる。写像の撮影は背景感の狙いを持ってレンズを選択し撮影するというのが大きな流れであるが、これを50mmレンズ1本では自身が前後し編集し易いように対象の大きさを変えながら撮影するという動きとなる(これを持ってしても背景の広がり方は50mmの背景感覚を逸脱することは出来ないが)

オリンパスのM.ZUIKO DIGITAL 25mm F1.8は、中心から周辺にかけて解像感を維持しようとする今様の考え方がはっきりしており、テストしようとしていたライカのズームレンズとは立体感を醸し出す感覚が対抗軸といっても過言ではないほどの設計思想の違いを感じる事ができる(どちらが勝っているとか、どちらが残るかという話ではない)

というのはさておいて、1本のレンズで動画を構成するというのも結構しんどかった。単レンズも25/f1.8,35/f3.5Macro,50/f2Macroの3本となり12と7~80mmを追加したら単レンズで撮影出来るかなと結構マジで考えている。まぁエープリル・フールも多少関係していなくもないが(笑

常陸源氏の登場(河内源氏義光流佐竹氏)馬坂城


   

河内源氏義光流の源昌義が太田に土着した佐竹氏発祥地である馬坂城址に訪れた。この地域は古墳時代に物部氏が所管し開拓したと見られている。佐竹の由来は天孫降臨した物部氏の眷属の中に狭竹物部氏がいることから狭竹から後世に佐竹に変わったと面白い推測がなされている。

源義業(みなもと の よしなり)は1077年に源義光(新羅三郎義光)の適男として生まれる。長じて常陸平氏の吉田清幹の娘を妻にし昌義が生まれた。この昌義が久慈郡佐竹郷に土着して佐竹氏を名乗り佐竹初代とされている。正確にいうと義業が常陸源氏の初代と言ってもいいのだが久慈郡に居を構えて勢力を振るっていたという資料がみつからない。

元々、久慈郡は前九年の役のときに義光の武功によって与えられた地を義業が相続したと見られているが、太田には受領から土着した藤原秀郷流の武門藤原氏の一族である藤原通延が根をはっていた。そのため昌義は当初、佐竹寺の前身となる観音寺に寄居していた。ところが馬坂城主であった藤原一族の天神林氏が悪政を施したため昌義は馬坂城を襲撃し乗っ取ってしまった(勝った方のいい分には見えるが)

吉田清幹の手兵を借りたと伝えられている。時に昌義37才の齢だった。ここに佐竹氏は初めて城を持つ事になり太田に土着する拠点となった。その後、昌義は太田城を占拠し太田城主となったというのが佐竹氏の創世伝説である。余談となるが藤原氏は小野崎と名前を変えて宿老として佐竹氏に仕え、その支流の額田小野崎氏の末裔と筆者は友人となった。同じく京都に居る藤原系の友人と顔が似ているので笑ってしまった経験がある(笑

この地域は誰それの末裔と仰る方が多く、ここちよく目を回す事が多い。昌義は源氏とは馴染みの深い奥州藤原氏の藤原清衡の娘を娶っている。東国においては頼義以来の源氏の生き方なのだろう。手堅く閨閥形成していくのも兵法のうちだったのかもしれない。

その後、馬坂城は昌義の孫であった義清が入り城を稲木城とあらため、代々稲木氏を名乗ったという。城の外郭は40町歩に及んでいるが遺構には石垣などが見られない事から砦のような形態だったかと推測出来るが、背後にある鶴ヶ池から岸が切り立った形となっており結構な要害であったと感じさせる。藤田や河合の見通しがすこぶるいいが太田城方面は木々がしげり憶測すら妨げている。

中世期に佐竹氏が躍進を始めたきっかけとなった城であることはまぎれもない。




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