記事一覧

西山の里に春が来た


   

3月の下旬に西山の里で撮影を行った。桜は来週あたりに満開になりそうだ。

撮影日はライカのズームレンズのテスト予定だったが、このオリンパスの単レンズの性能に息を飲み結局、ズームテストは後日にし、このレンズでの撮影を優先した。解像感というより解像度そのものという写像がファインダーに現れた。単レンズの凄さである。

概算でNDを24~26程かまし昼間でもF1.8が維持出来るようにした。つまり全カットF1.8の撮影を行っている。解放から使えるという触込みと、どのあたりから崩れて行くかの確認のためで、総じて逆光にはちょっと弱いとの結論を出したが、大方のレンズはその傾向にあり、きちっとハレ切れをすれば撮影に耐えられるものが多い。

副次的に25mm/f1.8(35mm換算50mm)のレンズ1本でさらっとまとめる事ができて嬉しかった。カメラメーカーでは50mmを標準レンズとして設定しているところが多い。それは学説にも寄るが人間の見た目と50mmの画角が近いという説に拠っている。この場合1本で撮影するということはカット構成に合わせてカメラがマメに立ち位置を変えて画角を合わせる作業に他ならない。

本来ならば対象が同じ大きさでもレンズの画角により背景の広さに変化が生じる。24,35,50,80mmのレンズを使い対象を同じ大きさに撮影しても背景の広がり方が全然異なる。写像の撮影は背景感の狙いを持ってレンズを選択し撮影するというのが大きな流れであるが、これを50mmレンズ1本では自身が前後し編集し易いように対象の大きさを変えながら撮影するという動きとなる(これを持ってしても背景の広がり方は50mmの背景感覚を逸脱することは出来ないが)

オリンパスのM.ZUIKO DIGITAL 25mm F1.8は、中心から周辺にかけて解像感を維持しようとする今様の考え方がはっきりしており、テストしようとしていたライカのズームレンズとは立体感を醸し出す感覚が対抗軸といっても過言ではないほどの設計思想の違いを感じる事ができる(どちらが勝っているとか、どちらが残るかという話ではない)

というのはさておいて、1本のレンズで動画を構成するというのも結構しんどかった。単レンズも25/f1.8,35/f3.5Macro,50/f2Macroの3本となり12と7~80mmを追加したら単レンズで撮影出来るかなと結構マジで考えている。まぁエープリル・フールも多少関係していなくもないが(笑

常陸源氏の登場(河内源氏義光流佐竹氏)馬坂城


   

河内源氏義光流の源昌義が太田に土着した佐竹氏発祥地である馬坂城址に訪れた。この地域は古墳時代に物部氏が所管し開拓したと見られている。佐竹の由来は天孫降臨した物部氏の眷属の中に狭竹物部氏がいることから狭竹から後世に佐竹に変わったと面白い推測がなされている。

源義業(みなもと の よしなり)は1077年に源義光(新羅三郎義光)の適男として生まれる。長じて常陸平氏の吉田清幹の娘を妻にし昌義が生まれた。この昌義が久慈郡佐竹郷に土着して佐竹氏を名乗り佐竹初代とされている。正確にいうと義業が常陸源氏の初代と言ってもいいのだが久慈郡に居を構えて勢力を振るっていたという資料がみつからない。

元々、久慈郡は前九年の役のときに義光の武功によって与えられた地を義業が相続したと見られているが、太田には受領から土着した藤原秀郷流の武門藤原氏の一族である藤原通延が根をはっていた。そのため昌義は当初、佐竹寺の前身となる観音寺に寄居していた。ところが馬坂城主であった藤原一族の天神林氏が悪政を施したため昌義は馬坂城を襲撃し乗っ取ってしまった(勝った方のいい分には見えるが)

吉田清幹の手兵を借りたと伝えられている。時に昌義37才の齢だった。ここに佐竹氏は初めて城を持つ事になり太田に土着する拠点となった。その後、昌義は太田城を占拠し太田城主となったというのが佐竹氏の創世伝説である。余談となるが藤原氏は小野崎と名前を変えて宿老として佐竹氏に仕え、その支流の額田小野崎氏の末裔と筆者は友人となった。同じく京都に居る藤原系の友人と顔が似ているので笑ってしまった経験がある(笑

この地域は誰それの末裔と仰る方が多く、ここちよく目を回す事が多い。昌義は源氏とは馴染みの深い奥州藤原氏の藤原清衡の娘を娶っている。東国においては頼義以来の源氏の生き方なのだろう。手堅く閨閥形成していくのも兵法のうちだったのかもしれない。

その後、馬坂城は昌義の孫であった義清が入り城を稲木城とあらため、代々稲木氏を名乗ったという。城の外郭は40町歩に及んでいるが遺構には石垣などが見られない事から砦のような形態だったかと推測出来るが、背後にある鶴ヶ池から岸が切り立った形となっており結構な要害であったと感じさせる。藤田や河合の見通しがすこぶるいいが太田城方面は木々がしげり憶測すら妨げている。

中世期に佐竹氏が躍進を始めたきっかけとなった城であることはまぎれもない。

沢又三太巨人伝説と三太の湯


   

進撃の三太という題名にしようかと思ったが、ちょっと気が引けた(笑)今回はサブカメラのGH2を久しく触っていないのでレンズテストをかねて三太の湯に訪れた。

2010年に発売されたPanasonicのミラーレスカメラGH2はシネマ24pなど映画画質に近づける機能が搭載され、短編やドキュメント畑の関係者から注目を浴びた。ただ基本性能の記録周波数はメーカーの最終ファームウェアー上でも22MbpsのAVCHD規格に縛られており、いずれ時代の流れに埋没していく予定調和された機種だったことは間違いない(そのため中古価格は現在2万円を切っている)

ところがそこに異変が起きた。北米のユーザーが中心となりファームウェアーが解析され記録周波数を独自に上げる競争が始まったのである。その動きは2014年の後半まで続き、安定して動く数種類のファームウェアーで終結している。概ね記録周波数が150Mbpsまで嵩上げされ元の規格の7倍まで拡張したものだった。本来ならそこで素晴らしき世界が堪能できるはずだったのだがPanasonicが新製品をぶつけてきた。

4K 100Mbps、2K(通常のハイビジョン)FHD200Mbpsの性能がデフォルトで搭載されたGH4が発売されたのである。動画に携わっている関係者は震撼した(4Kの時代が幕を開けたのだ)ハッキングされたファームウェアーの影響でGH3が売れなくて頭に来たのかもしれない(笑)GH4は時代を分けると言っていい程の性能だった(将来的にはスポーツやニュース用の静止画カメラもこの系統に塗り変わる機能も搭載されていた←時間の問題だ)

初物買いを辛抱して半年後に購入したGH4を使いこなすには長い時間がかかった。ポテンシャルがありすぎたのだ。ようやくGH2に目を向ける事ができた。それもGH4とオリンパスのM.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6 IIの擦り合わせがあまりにも良かったので高周波数記録に対応出来るGH2で見てみようとの思いからだ。結果的には並だったが(笑

筆者的な仮説を述べると一眼レフ動画の場合、いいカメラといいレンズの組み合わせの前提に高周波数記録ができなければスカだ。今のセンサー技術ではその考え方を落としては考えられない。その意味では150Mbps以上が期待出来るGH4,GH2の2択しかなく、それ以外は100Mbps以下の何とも言えない仕様となっている。

もっともHDMIの外部記録装置としてAtomos Ninjaなどの存在が光るが、筆者くらいの年齢となると重い(笑)今年はNinjaを使い4Kと2Kの同時収録を行い1カメで2画角編集する実験を行うつもりだがどれだけ重量を落とせるか気も思い(笑

三太の湯は常陸大宮市諸沢にある旧山方町で企画された温泉施設で合併後は常陸大宮市が所管する常陸大宮市温泉事業株式会社が経営している。3つほどの温泉があり、ささの湯、三太の湯、ごぜんやま温泉と聞けば隣町なので知っている人も多いだろう。3つともかなり大規模な施設だ。

このセクターが画期的なのは3温泉とも障がい者の入場料が100円というサービスを打ち出しており、これに後期高齢者を含めたこの手のサービスは地方行政に於いては、住んでいて良かったの文脈でこれから日本のトレンドになっていくのだろうと筆者は感じている。

共通した域内高齢化の問題を抱え、一定の障がい者人口を持つ同規模の隣町で、このようなサービスが行われ自分の町ではできない事を理論武装できる職員や首長、政治家はいないだろう。

栄町に住んでいる筆者はもっぱら赤土を通り、金砂の湯から常陸大宮市に入りすぐ右折する山道で三太の湯に行くのを好む(一番近い道かもしれない)尾根を削って道を広げたような道路はスリルがあるが速度を落としながら向かうと100以上も沢があると言われている諸沢地区の風情を楽しむ事ができる。このあたりは人家が少なく昔の人が里に出るのにどのくらい苦労したか伺われる。

諸沢は常陸太田にも縁が深く金砂祭礼には花行列で登場する。このことから三太も出雲系の神様に近いと考えてしまったが南から来たというのはどこの場所を意味するのか謎だ。

三太と沢又の開墾(さんたとさわまたのかいこん)
http://www.city.hitachiomiya.ibaraki.jp/~kankokyokai/spot_guide/05manabu/shiseki/shiseki40/index.html

映像日記の歴史年表をチョイいじった

ファイル 428-1.jpg

記録を見ると、前回に雛形を作ってから6年間放置していたようだ(笑
話せば長くなるので割愛させていただくが200~860年までのテキストはそのままにしてムダな機能を省き、もっとシンプルにしてみた。

アプローチは
1.Wikipediaベースで年表から事柄を拾ってゆく
2.その事柄をGoogleに連動リンクさせる
3.関連動画をYouTubeにも連動リンクさせる。

それに常陸太田市周辺史の年表を加え
たまに筆者の妄想史観を付け加えるという構造だ。

問題があるとすれば西暦1000年近くから項目が膨れ上がってくる傾向が顕著となる。

ただしメリットもある。
1.例えば300-560年といった期間検索ができる(単年度検索もできる)
2.事柄検索もできる

使い方として事柄をシンプルに入力して検索で引っかかった複数の事柄をGoogleにリンクして調べるという方法と将来的には人名をWikiにリンクして調べるというところまで詰めて行きたい。最終的に常陸太田市を中心としたプライベートベースの年表にして行こうというのがほぼ煮詰まってきた(いつ完成するかは神のみぞ知る(笑))

最初の構想段階では検索エンジンを改造しようかと考えていたが年表ベースの使い易そうなのがあって使ってみたところ歴史の流れも理解出来る使い方ができそうで満足している。今後はテキストデーターが膨れ上がりそうなので動画もリンクだけで割り切ろうかと思っている。

まぁ、暖かくなってから取りかかる予定で、それまでは構想中ということにしておこう。余技としてCGI(PERL)とPHPを使ったScript改造に深刻になるほどハマった時期があったが期間を置いても酷い目にあった事はしっかり憶えており再度ハンドリングする気になった(笑




サポートシール普及協力のお願い
太田公民館 活動案内
   









★★★ 話題の動画 ★★★ 
   第32回常陸太田朝市 風評被害を吹き飛ばせ

   
   (仮称) 常陸太田トンネルの完成

   
   茨城巨人伝説

   

【特別連続企画】戦国大名佐竹氏の源流を辿って
   清和天皇水尾山陵と貞純親王