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新羅三郎義光の元服


   

常陸太田市を本拠とした戦国大名佐竹氏の祖である源義光が元服したと言われる大津市の新羅善神堂を訪れた(撮影2012年)

河内源氏三代とは多くの場合、頼信、頼義、義家を指すが、武門の棟梁、源氏の大将、或は清和源氏の名流とされる家系は河内源氏棟梁二代目である頼義を祖とする者が多い。例えば河内源氏棟梁三代目で長男の八幡太郎義家は源為朝、源頼朝や源義経、源義仲の他、後の新田氏の祖となる源義重や足利氏の祖となる源義康といった源氏の代表的な武将が輩出されている。また次男の賀茂次郎義綱からは、美濃や河内などに石橋氏を輩出しており、三男の新羅三郎義光からは、源義業の子・佐竹昌義を祖とする佐竹氏、義業の弟源清光の子からは武田信義を祖とする武田氏やその弟加賀美遠光の子・小笠原長清を祖とする小笠原氏が輩出されている。


新羅善神堂が祀る新羅明神の縁起をみると新羅の国神とあるから朝鮮の神様であった可能性が高い(9世紀の話である)別の説として国会図書館に収納されている神仏図絵では「素盞嗚尊皇子なり母は稲田姫尊、五十猛尊紀州名草の社、近江国新羅大明神是なり」と記されている。スサノウと稲田姫の息子でイソタケルという記述があるのだが神仏図絵の成立年代がはっきりしていない。イソタケルは記紀では高天原を追放されたスサノウに従い出雲に上陸し高天原より持ち込んだ樹木の種を日本で植えたという。話が微妙に錯綜しているのだ(笑

注目したいのはスサノウの奥さんにあたる稲田姫を祀る神社が笠間市稲田にある。この縁起は不思議なもので「自分は奇稲田姫で当地の地主神である」と降臨したことにある。記紀をかじった方は、あれっと思うかもしれないがスサノウがヤマタノオロチと戦った時は稲田姫を櫛に変えて櫛を頭にさして戦ったと記述されている。

スサノウは剣を拔きてこれを斬った。尾を斬る時に剣の刃が少し欠けたので、割りてこれを視るに剣が尾の中に在った。これを草薙剣と言う。これは今、尾張國の吾湯市村(あゆちのむら)にある。熱田の祝部(はふりべ)の掌(つかさど)る神がこれである、とある。その蛇を斬った剣を蛇之麁正(おろちのあらまさ)と言う。これは今石上(いそのかみ)にある。

そうした後に、奇稲田姫を湯津爪櫛から少女の形に戻し、結婚の地を探して、出雲の淸地(すが)を訪れ、宮を建てた。そして「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」の歌を詠んだ。この後、稲田宮主簀狭之八箇耳が生んだ、子の真髪触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)を出雲國の簸之川の川上に移して育てた。そうした後にスサノウが妃とし、生ませた子の六世の孫を大己貴命(大国主)と言う。

日本最古の和歌(結婚の感動を歌っている)と天孫系の出雲(国津神系)の土着のきっかけとなったヤマタノオロチ退治と出雲国の成立の事情を見事に語っている。引っかかったのは稲田姫の「自分は奇稲田姫で当地の地主神である」という語りだ。ヤマタノオロチ退治の現場は笠間だったの(笑)出雲の淸地(すが)って菅谷の近辺という話になる(←ならないか(笑))まぁ筆が勝手に書いているのと思って欲しい。


さて、いよいよ清和天皇から始まって義光の子孫が常陸太田に入る一歩手前までになってきた。この後予定では源氏三代の墓所と義光の墓、清和源氏佐竹氏流の京都の革嶋氏(革嶋神社)を予定しているが後者は金砂大戦の時にアップするか悩んでいる。ただし太田に入ってからの撮影は時間が前後しても撮影を優先していきたいと傾きかけている。


戦国大名佐竹氏の源流を辿る旅
https://www.youtube.com/watch?v=_Jn0xa0cZ_Y&list=PLyOrGD-8u48H2oix-RrU2GyZvBFZnhYv1




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