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源満仲・清和源氏武士団の登場


   

前回アップした源経基の居宅であった六孫王神社から8ヶ月になるが、その経基の子息であった源満仲が本拠を構えた現在の兵庫県川西市多田院にある多田神社をお届けする。

ちょっと間が空いてしまったのは筆者なりに武士団成立のイメージが掴めなくて書けなくなってしまったのがあった。満仲の父親である経基は平将門の乱や藤原純友の乱にうまく立ち回り、朝廷より五位に叙せられている。元来貴族というのは朝廷より五位以上の位階を持つ者をいう。このため職能を軍事や武芸とされる者は学術上の用語として軍事貴族という名称が使われている。

源満仲はこの父親の実績を背景に藤原兼家(北家)の信任を得て武士の第一人者の地位を獲得している。しかしながら父親の経基は平将門を密告したり、満仲に至っては安和の変の密告や花山天皇退位事件の謀略等、後の時代の源氏にまつわる問題点の原点を見るようではなはだ目をそむけたくなるような立ち振る舞いが始まっている。

これによって満仲は累進し諸国の受領を歴任し莫大な富を得る事ができた。そして現在の川西市多田院に本拠を構え郎党を中心とした武装集団を形成したというのがおおまかな流れである。この流れから見ると最初に所領(開墾地)を元に武士団を形成したのは桓武平氏を中心とした東国の武士だったというのがわかる。

つまり当時の武士団というのは五位以上の高貴な血筋を中心に、所領がなければ存立の正統性が相対的になってしまうということなのだろう。決して荘園の用心棒が野合的に膨れ上がったという話ではないのだ。この多田神社と羽曳野市にある壷井八幡宮、常陸太田市の鯨ヶ丘には共通なものがある。それはいずれも小高い丘の側に川が流れ、後背は防御しやすい地形に館が建てられている。道路も弓矢の照準が決められないように微妙に蛇行した作りになっていることだ。当時の兵法をうかがう事ができ非常に面白かった。

多田神社では検非違使が立ち入る事ができない治外法権の場所であり域内で満仲は絶大な権力を持っていた。又、東国の軍団が動員に手間取っている間に京の近くにある多田から有事の際には武士団を素早く移動出来ることから、満仲が武門源氏の祖と言われるのも納得出来る(そのため平氏は京都に近い伊勢、伊賀に進出している)

この満仲から長男の頼光は摂津源氏として、次男の頼近は大和源氏として、三男の頼信は河内源氏の祖となっている。ここにいよいよ佐竹氏の祖であった河内源氏の名前が見えてきた。余談となるが厳重に結界が張られた内側で、いきなり撮影機材が動かなくなるなどバックアップの用意をしなければ予定の撮影ができなかったと今でも思い出す。変な言い方になるが、ここには何かがいる。

この日は大阪府和泉市→兵庫県川西市→京都府右京区嵯峨→滋賀県大津市→大阪府和泉市という非常にタイトな撮影スケジュールで晴間を待つゆとりがない日だった。遠隔地にいくと地元と違って晴以外は撮影しない等という事もできず、曇りに撮影する神社仏閣というのはなにやらキモイトーンになるのはしかたがないとあきらめながら移動していた(笑

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