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梵天山古墳(常陸太田 物部氏伝説の終章)

     

島町にある茨城県下第二位の大きさである前方後円墳の梵天山古墳を ご紹介する。全長151メートルあり伝承では船瀬足命(ふなふせのすくねのみこと)の墓といわれている。下記で航空写真を見ると感じがよくわかる。


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近年まで霊域として婦女子が登る事が禁止されていた。光圀が巡回のときに不思議なことが起こったのをきっかけで梵天山と言う名前がついたと伝えられている(市史 民俗編)奥羽三山の三梵天を祀ったのが名前の縁起らしい。

資料を探しまわったが、どうやら本格的な発掘調査が行われた様子がない。最近の史書では4世紀の後半に築造されたのではないかという仮説が現れ始めている。

もし発掘等で船瀬足命の墓であり築造年代4世紀後半などと記された木簡でも出てくれば、過去コラムで仮説として提示した記紀の年代と常陸太田史がシンクロし日本史が書き直される可能性があるだけにロマンが膨らむ(さらに発掘技術の進化が年代特定の信頼性を厚くしていると聞く)

稲村神社(常陸国 狭竹物部伝説)
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=115

光圀の故事もあるため、しばらく撮影をためらっていた。当日(12月中旬)の状況を言うと、晴天にもかかわらず古墳に登るといきなり風が吹き始めて木が擦れ合って山鳴りが始まった。と同時に松の実が大量に降って来た。撮影中の陽の状態がかなり不安定(古墳の上だけである)で、折れた松の枝が頭を2回直撃した(映像でも感じられるかもしれない)もうさんざんである(笑

場所柄によってピントが合わない等の経験は何度もあったが、上記のようなことは初めてだった。しかも古墳から下ったら風が納まったのだから不思議を通り越してミソギをきちっとせんとマズかったかな等と思ってしまった。

てか、もう登らんでおこうなどと考えている(笑)筆者的には不思議な体験をした日だった。伝承では亀を食べる者がこの山を登ると必ず怪我をするという話がある。スッポンでも食べてシャレで登ってみたら ちょっとマズイかなとマジで考えさせられた日だった。

薩都神社(祟り神伝説)
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=116

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=1

梵天山宝金剛院
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=124

薩都神社(祟り神伝説)

     

里野宮町には恐ろしい伝説が残っている。


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自此北、薩都里。
古有国栖。名曰土雲。爰兎上命、発兵誅滅。
時能令殺、福哉所言。因名佐都。(常陸国風土記)

この北に薩都の里がある。
土雲(土蜘蛛)という名の国栖(先住民をクズと呼称)あり。
兎上命(ウナカミノミコト)は軍を発して滅ぼした。
うまく殺すことができたので福(サチ)の所かなと言った。
ちなんで佐都(サツ)という名前になった。
(古代はチとツの音が同じだったらしい)

そして佐都(サツ)は殺(サツ)につながるのが容易に連想される命名と考えてもやぶさかではない。ギョエー!! してしまう様な話だ。

兎上命は稲村神社や長幡部神社で触れた伊香色雄命の息子と言われている。伊香色雄命は第八代孝元天皇の弟で開花・崇神両朝に仕え、大臣として天皇を補佐した。この記述ばかりではないが崇神王朝は物部系統ではないかとの説がある。ただしここでは深入りしない。

久慈に入植するには おそらく竪穴式住居に住んでいた土蜘蛛と呼んだ先住民を排除しなければならなかったし、その主体者が船瀬足尼(ふなふせのすくねのみこと)を孫とする伊香色雄命の息子であった兎上命だったということだ(船瀬足尼が兎上命の息子であったという伝承は残っていない)筆者的には、ここにも物部の足跡があるという思いだ。

さて薩都神社(さとじんじゃ)の伝承を探ってみよう。

東大山、謂賀毘礼之高峰。
即在天神。名称立速男命。一名速経和気命。本自天降、即坐松沢松樹八俣之上。神祟甚厳。有人向行大小便之時、令示災。故、疾苦者、近則居人、毎甚辛苦、具状請朝遣片岡大連、敬祭祈曰、今所坐此処、百姓近家、朝夕穢臭。理不令坐。宜避移、可鎮高山之浄境。於是、神聴祷告、遂登賀毘礼之峰。(常陸国風土記)

主祭神 立速男命が松沢の松の樹に降臨したらしい、ところが村人が木(神)に向かって用(大小便)をすると甚だしく災い(祟り)を及ぼした(祭祀をおこなわないで用をするとも読める)そこで朝廷に陳情したら片岡連(鹿島神宮の中臣氏と同族)を遣わして神意を聞いたという。「神曰く 高山の浄き境に鎮りたまふべし」ということで東大山の毘礼之高峰に移ったという(ただし12年後に里野宮に戻っている)

これをどう読むだろうか、要約すると祟り神で薩都神社から賀毘礼神社に追い払われたと感じるのは筆者だけだろうか?(ちなみに常陸国風土記には行方郡の「夜刀神」が同じく祟り神として掲載されているが祟る理由が明快だ)後年、水戸光圀が作らせた「新編常陸国誌」に更に詳しい事情が書かれているが、出典が明瞭でなく風土記より、ほぼ千年の隔たりがあるので割愛する(といっても風土記も土地の古老曰くの類いが多いのだが(笑))

疑問点を洗うと
・天つ神といわれている立速男命の素性がはっきりしない
・村人が祭祀を行わず神社に向かって用をするなどあり得るのか?
・片岡連と薩都神社近辺に居住していた卜部との関係は?

つまり記紀にない名前の天津神の存在が、その当時は共通認識としてあったのだろうかということと、祭祀をしたら神社に向かって用をたして問題ないと言う話でもないだろう。そもそも村人にあがめられていたのかという疑問だ。また神社周辺に居住していた卜部は片岡連以降に鎮魂のために来たとも考えられなくもない。

この辺が微妙に謎なのだ、誅滅された先住民の神だったのかもしれないと思わせるような話なのである。その辺の疑問は置いて(笑)兎上命が長幡部入植から船瀬足尼を繋ぐ年代に存在していたことは確認出来たと思う。

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=1

稲村神社(常陸国 狭竹物部伝説)
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=115

薩都神社は785年に創立された記録があるが筆者はもっと前からあったと思っている。というのは865年に朝廷より従五位を授けられており、稲村神社や天之白羽神社より先んじている。筆者的には域内で最も古い長幡部神社や稲村神社と同時期にあったのでないかと推測しているのである。ともあれ国内的にもまったくユニークな祭神を祭っている神社であることは疑いもない。

薩都神社の撮影は夕暮れ時を狙ってみた。何かしらの古代チックな表情がでたのではないかと思いたい(笑)次回の歴史物は梵天山古墳に挑戦してみようかと思っている。

梵天山古墳(物部伝説の終章)
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=119

稲村神社(常陸国 狭竹物部伝説)

     

昨年の秋に稲村神社を撮影していた。場所は天神林町で、そこには佐竹氏の飛躍の始まりとなった馬坂城(間坂城)、稲村神社、佐竹寺が歩いて回れる距離にあり歴史好きにはシビレル所となっている。


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今回は稲村神社と日本史の謎とされている関わりを映像日記ファンタジー史観として述べてみようと思う。

興原敏久(三河国造家物部氏の一族 788-849)が編集したといわれる『先代旧事本紀』の国造本紀によると成務朝に伊香色雄命(饒速日命(ニギハヤヒ)の6世孫)の3世孫の船瀬足尼(ふなふせのすくねのみこと)が久自国造に任じられたという。

饒速日命(ニギハヤヒ)については太田稲荷神社で触れた
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=2

「国造本紀」に載った国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えている。これは諸国に令して、行政区画として国郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図ったわけである。

現在の稲木町と天神林町、谷河原町は狭竹部が居住した場所と言われている。そこから佐竹郷という荘園が後年生まれている(佐竹氏の佐竹である)さらに饒速日命が天孫降臨の折に随行した天物部25部に狭竹物部が存在する。つまり船瀬足尼が国造と船瀬足尼の同族の狭竹物部の一族が稲置(いなぎ)を拝命し稲木町名が起こったと映像日記は考える。また稲村神社は物部氏の氏神であったというのが考えやすい。

問題は成務天皇が実在の人物かという信憑性が横たわっている。これは古代史が継体天皇以降の年代が、ほぼ事跡とシンクロしているのに対して継体天皇以前が記紀等の年代と事跡とが齟齬をきたすことから派生している(継体天皇は北陸で即位し大和に出て来るまで19年の歳月を要している。即位は大伴氏や物部氏が決定的な役割を果たしている)

そこで着目したのが学会では少数派である2倍暦説を継体天皇以前の天皇に導入すると常陸太田史とシンクロする事を発見した。2倍暦説は三國志 魏書 東夷伝 倭人にある裴松之注に引用される『魏略』逸文に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す)との倭の風俗記事があることから、1年を2倍にして年次を設定したとする説である。

伊香色雄命(饒速日命(ニギハヤヒ)の6世孫)は崇神天皇に蛮族を制圧し国造を設置することを献策しているが、これが長幡部の移住に関連したと思われる。伝説によると祭神・綺日女命は天孫降臨に従い、その後、日向から美濃(三野)へ移り、崇神天皇の御代に、長幡部遠祖・多弖命が、美濃から久慈の当地へ遷したという(常陸国風土記 721年成立)

長幡部神社
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=1

『古事記』 (712年成立)では崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、258年(または318年)没と推測する。従って長幡部の入植は250年前後という年代に映像日記は立っている。

この没年説とは別として2倍暦説を崇神天皇の在位に当てはめれば207〜241年となり年代的にかなり近い。また成務天皇の在位にあてると312〜351年となる。更に宋書に於いて記述されている倭王武(雄略天皇説最有力)の上表文が提出された年が478年であり雄略天皇の在位を2倍暦説に従うと482〜494年と算出される。以下、507年の継体天皇の即位まで常陸太田史的側面からみると無理なく流れる。

崇神天皇、長幡部、船瀬足尼、梵天山古墳の常陸太田史と日本史の謎だった時間の流れが2倍暦説によって微妙にシンクロしはじめるのである(これって町おこしのネタにならんかしら(笑))

また日本武尊は成務天皇の異母兄弟であることが継体天皇以前の天皇系図に記録されている。つまり船瀬足尼と日本武尊は同時代と言う話になる(ファンタジー史観である(笑))

稲村神社の主祭神は饒速日尊で物部氏の祖である。初めて訪れた時は何と長い参道かと感心したが、今では訪れる人も少ない。筆者的には市内で古代の息吹を感じる数少ない場所だと思っているのだが...余談となるが上記の縁起であるならば稲木神社、もしくは物部神社という名称にしたほうが、ふさわしいような気がする。

次回は伊香色雄命と船瀬足尼を繋ぐ重要人物である兎上命と薩都神社の謎に迫りたい。その次は梵天山古墳かな(笑

薩都神社(祟り神伝説)
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=116

梵天山古墳(物部伝説の終章)
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=119

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