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お江戸のスーパースター 都々逸坊扇歌

     

ウズベキスタン戦を見て熱くなり夜更かしをしてしまった(笑
今回は磯部が生んだ快男児、都々逸坊扇歌(どどいつぼう せんか)のお話である。


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50年に渡って権力を保持した第11代将軍徳川家斉(1773〜1841)の時代に都々逸坊扇歌(1804〜1852)は磯部に生まれた。

父親は岡玄策という優秀なお医者さんだったらしいが奇行が目立ったと言う。助からぬ病人と見るや枕元で念仏を唱えたと言うから患者もたまったものではない(笑

二男二女の子供がいたという。ところが疱瘡の治療に自分の子供を実験に使い長男は失明し次男はしょぼしょぼ目のあばた面になってしまった。この次男の子之助が後の扇歌である。

子之助は姉の遊芸の稽古の傍らにいるだけで長唄、清元、新内、常磐津、小唄、流行歌等をすっかり覚えてしまった。まるで栴檀は双葉より芳しのような話だ。

玄策が見かねて医者になるように心掛けろと諭したら
「親が薮なら私も薮よ、薮に鶯鳴くわいな」と煙に巻いたらしい(笑

一時期土地の酒屋の養子になったらしいが、その家に子供が生まれたのをきっかけに江戸に行く気持ちを固めたらしい。20才の頃だったと言う(世は家斉の大御所時代に入っていた)

その頃、姉夫婦の仲が悪いのを気にやみ
「磯部田圃のばらばら松は 風も吹かぬに木(気)がもめる」という歌を作ったのが有名だ。江戸に出てから相当苦労をしたが江戸随一と言われた落語家入船亭扇橋の元で修業し都々逸坊扇歌の芸名でブレークしたというのが大まかなサクセス・ストーリーである。

全盛期は八町四方では寄席の入りが悪くなるという意味で仲間うちから「八町あらし魔王」とシャレの効いた渾名で呼ばれた。(ちなみに都々逸坊扇歌は落語の名跡となり現在は空席になっている)

都々逸の七・七・七・五の音数律に従う口語による定型詩の形を大成したのは扇歌だと言われている。節回しが簡単なのが受けた原因と言われているがアドリブ的な要素が強く、演じ手である扇歌の才能がなければ開花しなかったのではないかと思われる。

当時としては画期的なオリジナリティーだった。

この時代の江戸はどのような言葉で話されていたのか時々疑問に思う事がある。日本語の標準化は明治以降に制定されているが現代の発音がデファクトになったのは大正時代の後期にNHKのラジオが普及してからだと考えるのが妥当だ。

また武家言葉と町人言葉の2つあったこともはっきりしている。現在と著しく言語環境が違うのだ。すなわち江戸では身分に準じた言語と方言が混在していたと考えるのに抵抗がないという話になる。筆者には謎なのだ(笑

というのも七・七・七・五の音数律というのは音韻が気になるからに他ならない。言霊のノリなのだ。まぁこれは筆者の妄想視点だ。

都々逸坊扇歌は「上は金 下は杭無し(食いなし) 吾妻橋」という幕政を批判した狂歌のために江戸追放となる。そのため石岡の姉の嫁ぎ先を拠点として死ぬまで全国に都々逸興行を打ったという。

磯部が生んだ快男児の反骨精神の面目躍如ということだろう。

第23回都々逸全国大会は
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=86

太田落雁

     
ファイル 21-2.jpgファイル 21-3.jpg

撮影した日は夕日が綺麗で思わずカメラを持ち出して歩き回ったことしか覚えていない。狙って撮ったのではなく近所を散歩する感じで撮影している。


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太田落雁は最後の将軍、徳川慶喜の父親である水戸九代藩主徳川斉昭が水戸八景に選んだ地だという。斉昭はここで和歌を読んでいる。

さして行く越路の雁の越えかねて
太田の面にしばしやすらう

といっても映像では当時の風情と異なり市街化がかなり進んでいる。そこで昭和33年に発行された「常陸太田市観光要覧」の版権が昨年で消失していたので写真を使わせてもらった。(画像はクリックすると大きくなる)

写真の距離感から行って高札の抜けは浄光寺のある丘と推測される。当時は舞鶴橋は存在していない。そのため一面田畑となっている。現在の落雁の正面にあたる市街地も恐らく原風景は、このような田畑だったと想像される。

明治34年に発行された「太田勝景誌」の挿絵はもっとわかりやすい。この挿絵で初めて雁が群れをなして太田の田んぼに羽根を休めるという情景をイメージ出来る。

もしかしてイメージを記号化して「ド田舎ぁ〜♪」という言葉を思い浮かべるのが貴方だったとしたら、それは間違いだ(笑

勝景誌の記述によると「人口七千餘戸數千六百餘田畑反別二百六十丁八反廿歩餘全戸の内七分ハ商家にして三分は皆農工の業をなせり」とある。農本制封建社会の残照を残した明治に、こんな人口構成比はありえない。つまり江戸期の常陸太田は茨城県北に存在した商人の街だったのである。

筆者には落雁の風景をイメージすると背中には賑わっている商家の雑踏の音が聞こえて来るような気がする。歴史的な事跡を認識しようとすると、いつもそんな感覚になってしまうのだ。

まったく困ったものである(笑

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