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常陸源氏の登場(河内源氏義光流佐竹氏)馬坂城


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河内源氏義光流の源昌義が太田に土着した佐竹氏発祥地である馬坂城址に訪れた。この地域は古墳時代に物部氏が所管し開拓したと見られている。佐竹の由来は天孫降臨した物部氏の眷属の中に狭竹物部氏がいることから狭竹から後世に佐竹に変わったと面白い推測がなされている。

源義業(みなもと の よしなり)は1077年に源義光(新羅三郎義光)の適男として生まれる。長じて常陸平氏の吉田清幹の娘を妻にし昌義が生まれた。この昌義が久慈郡佐竹郷に土着して佐竹氏を名乗り佐竹初代とされている。正確にいうと義業が常陸源氏の初代と言ってもいいのだが久慈郡に居を構えて勢力を振るっていたという資料がみつからない。

元々、久慈郡は前九年の役のときに義光の武功によって与えられた地を義業が相続したと見られているが、太田には受領から土着した藤原秀郷流の武門藤原氏の一族である藤原通延が根をはっていた。そのため昌義は当初、佐竹寺の前身となる観音寺に寄居していた。ところが馬坂城主であった藤原一族の天神林氏が悪政を施したため昌義は馬坂城を襲撃し乗っ取ってしまった(勝った方のいい分には見えるが)

吉田清幹の手兵を借りたと伝えられている。時に昌義37才の齢だった。ここに佐竹氏は初めて城を持つ事になり太田に土着する拠点となった。その後、昌義は太田城を占拠し太田城主となったというのが佐竹氏の創世伝説である。余談となるが藤原氏は小野崎と名前を変えて宿老として佐竹氏に仕え、その支流の額田小野崎氏の末裔と筆者は友人となった。同じく京都に居る藤原系の友人と顔が似ているので笑ってしまった経験がある(笑

この地域は誰それの末裔と仰る方が多く、ここちよく目を回す事が多い。昌義は源氏とは馴染みの深い奥州藤原氏の藤原清衡の娘を娶っている。東国においては頼義以来の源氏の生き方なのだろう。手堅く閨閥形成していくのも兵法のうちだったのかもしれない。

その後、馬坂城は昌義の孫であった義清が入り城を稲木城とあらため、代々稲木氏を名乗ったという。城の外郭は40町歩に及んでいるが遺構には石垣などが見られない事から砦のような形態だったかと推測出来るが、背後にある鶴ヶ池から岸が切り立った形となっており結構な要害であったと感じさせる。藤田や河合の見通しがすこぶるいいが太田城方面は木々がしげり憶測すら妨げている。

中世期に佐竹氏が躍進を始めたきっかけとなった城であることはまぎれもない。

新羅三郎義光の元服


   

常陸太田市を本拠とした戦国大名佐竹氏の祖である源義光が元服したと言われる大津市の新羅善神堂を訪れた(撮影2012年)

河内源氏三代とは多くの場合、頼信、頼義、義家を指すが、武門の棟梁、源氏の大将、或は清和源氏の名流とされる家系は河内源氏棟梁二代目である頼義を祖とする者が多い。例えば河内源氏棟梁三代目で長男の八幡太郎義家は源為朝、源頼朝や源義経、源義仲の他、後の新田氏の祖となる源義重や足利氏の祖となる源義康といった源氏の代表的な武将が輩出されている。また次男の賀茂次郎義綱からは、美濃や河内などに石橋氏を輩出しており、三男の新羅三郎義光からは、源義業の子・佐竹昌義を祖とする佐竹氏、義業の弟源清光の子からは武田信義を祖とする武田氏やその弟加賀美遠光の子・小笠原長清を祖とする小笠原氏が輩出されている。


新羅善神堂が祀る新羅明神の縁起をみると新羅の国神とあるから朝鮮の神様であった可能性が高い(9世紀の話である)別の説として国会図書館に収納されている神仏図絵では「素盞嗚尊皇子なり母は稲田姫尊、五十猛尊紀州名草の社、近江国新羅大明神是なり」と記されている。スサノウと稲田姫の息子でイソタケルという記述があるのだが神仏図絵の成立年代がはっきりしていない。イソタケルは記紀では高天原を追放されたスサノウに従い出雲に上陸し高天原より持ち込んだ樹木の種を日本で植えたという。話が微妙に錯綜しているのだ(笑

注目したいのはスサノウの奥さんにあたる稲田姫を祀る神社が笠間市稲田にある。この縁起は不思議なもので「自分は奇稲田姫で当地の地主神である」と降臨したことにある。記紀をかじった方は、あれっと思うかもしれないがスサノウがヤマタノオロチと戦った時は稲田姫を櫛に変えて櫛を頭にさして戦ったと記述されている。

スサノウは剣を拔きてこれを斬った。尾を斬る時に剣の刃が少し欠けたので、割りてこれを視るに剣が尾の中に在った。これを草薙剣と言う。これは今、尾張國の吾湯市村(あゆちのむら)にある。熱田の祝部(はふりべ)の掌(つかさど)る神がこれである、とある。その蛇を斬った剣を蛇之麁正(おろちのあらまさ)と言う。これは今石上(いそのかみ)にある。

そうした後に、奇稲田姫を湯津爪櫛から少女の形に戻し、結婚の地を探して、出雲の淸地(すが)を訪れ、宮を建てた。そして「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」の歌を詠んだ。この後、稲田宮主簀狭之八箇耳が生んだ、子の真髪触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)を出雲國の簸之川の川上に移して育てた。そうした後にスサノウが妃とし、生ませた子の六世の孫を大己貴命(大国主)と言う。

日本最古の和歌(結婚の感動を歌っている)と天孫系の出雲(国津神系)の土着のきっかけとなったヤマタノオロチ退治と出雲国の成立の事情を見事に語っている。引っかかったのは稲田姫の「自分は奇稲田姫で当地の地主神である」という語りだ。ヤマタノオロチ退治の現場は笠間だったの(笑)出雲の淸地(すが)って菅谷の近辺という話になる(←ならないか(笑))まぁ筆が勝手に書いているのと思って欲しい。


さて、いよいよ清和天皇から始まって義光の子孫が常陸太田に入る一歩手前までになってきた。この後予定では源氏三代の墓所と義光の墓、清和源氏佐竹氏流の京都の革嶋氏(革嶋神社)を予定しているが後者は金砂大戦の時にアップするか悩んでいる。ただし太田に入ってからの撮影は時間が前後しても撮影を優先していきたいと傾きかけている。


戦国大名佐竹氏の源流を辿る旅
https://www.youtube.com/watch?v=_Jn0xa0cZ_Y&list=PLyOrGD-8u48H2oix-RrU2GyZvBFZnhYv1

河内源氏の登場(壷井八幡宮)佐竹氏の源流


   

4年程前に大阪に行った時に羽曳野市の壷井八幡宮を訪れた。河内源氏の本拠地として佐竹氏の始祖である源義光が誕生した所と推測している。(隣接して壷井神社がある)

ちょっとお蔵に入れすぎていた感のある動画だ。河内源氏初代の頼信は今昔物語にも多くエピソードが収録されており筆者の一番のお気に入りだ。満仲の三子として生まれ余り目立たなかったが摂関政治全盛時代の藤原道長に近接し運を開いている。

この動画は常陸太田市の戦国大名佐竹氏を辿る企画で制作している。
戦国大名佐竹氏の源流を辿る旅
https://www.youtube.com/playlist?list=PLyOrGD-8u48H2oix-RrU2GyZvBFZnhYv1&spfreload=10

羽曳野市壷井には河内源氏を代表する頼信、頼義、義家の三代が居住し平安期の東日本に多大の影響を与えた。源流を辿ると理解出来ると思うが天皇家から始まる家系であった。河内源氏はその貴種から始まる家系の中で軍事系の専門貴族であったということが言えると思う。つまり武士とは荘園を警護する用心棒や山賊のような出目ではなく貴種が専門化した武力集団というのが正解だった。

多田神社や壷井八幡宮の満仲や頼信の居宅跡を見ると常陸太田の鯨ヶ丘と非常に良く似ている。すなわち川を利用したり、小高い丘に立地し、攻め込むにも非常に難度の高い道路区画となっている。弓矢等を使っても照準が決まった途端に道路が左右に蛇行する仕組みとなっていたり大勢で一挙に攻め込む事が難しい広さとなっているのだ。これらの作りはみな恐ろしい程似ている。武系の家門にある戦術に対する共通のコンセンサスがない限りこのような居館を作ることが難しいであろうと現地で想像した。

源氏では源氏相食むということわざがあり同族間の軋轢が目立ってきたのが河内源氏以降の傾向である。これらの傾向もワンパターンがあった。郎党の土地等の諍いに主筋が否応なく巻き込まれるというパターンだ。主人が家来の領地を守らなければ離反を招きやすいと言い換えれば判りやすいのかもしれない。(ただし義光のは家督争いが絡んだ陰湿なもので業が深い)

平安期では大掛かりな反乱が目立つ。そのためスーパー古代道を使って機動力を生かしながら一族郎党を引き連れて遠隔地に行くにはそれ相応の恩賞を部下に分配しなければ足下が揺らいだのだろう。また頼義や義家の時代の戦力は地方豪族の加勢がなければ容易に勝利の計算が成り立たなかった。

自らがカリスマ性をおび、一族郎党を固め、地方豪族に加勢を求める目的合理性の整合を考え合わせると武門の棟梁は少なくとも貴種である正統性が最低の条件であったように思えてならない。

源頼義・河内源氏所縁 馬場八幡宮節分祭


   

2013年2月3日に常陸太田市馬場町にある馬場八幡宮で節分祭が開催された。

2月3日は太田駅前で汁ONEカップが開催され午後より馬場町に移動していた。ちょっとアップが遅れてしまったのは現在進めている「戦国大名佐竹氏の源流を辿って」に馬場八幡宮が関連しており構成に時間がかかってしまったからだった。動画内では馬場八幡宮の勧請先である京都府八幡市にある岩清水八幡宮をはさみこんでいる。

前回にアップした「源満仲・清和源氏武士団の登場」では清和天皇から4代目にあたる源満仲が居住した兵庫県川西市多田院の模様をお届けした。この満仲から長男の頼光は摂津源氏として、次男の頼近は大和源氏として、三男の頼信は河内源氏の祖となっている。予定では源満仲の三男であった頼信(筆者は今昔物語に多くの説話が残る頼信が一番好きだ)が本拠を置くことで河内源氏と称された壷井八幡宮(羽曳野市)の編集を、たまたま馬場八幡宮で節分祭があったために河内源氏との因縁が深い馬場八幡宮を繰り上げて編集してみた。

馬場八幡宮は頼信の息にあたる頼義が全九年の役に現在の岩手県あたりを本拠地にした安倍氏の反乱に対応して関東各地で戦勝祈願し源氏の氏神である岩清水八幡宮から御神霊を勧請したのが始まりとなっている。このとき頼義は70才で相当な覚悟をもって乱にあたろうとしていた。

この戦いでは頼義の息であった義家が参加しており父である頼義の危機を救っている。戦いは出羽国(秋田県)の清原武則の率いる約一万名の軍が参加する事で劣勢を挽回し最後に勝利を収めている。戦後に清原武則は鎮守府将軍と異例の抜擢を受け、後日、清原家の内紛により源義家が参陣した後三年の役につながる。

源頼義は前九年の役に勝利する事により河内源氏が武門の最高の格式を持つ家であるとの正統性を持つようになった。息である義家ともども神格化されていくのである。馬場町にある馬場八幡宮はそのような由緒を持つ八幡宮であり、後年、義家の弟である義光の子孫が土着して佐竹氏を称した時は代々、馬場八幡宮で元服が行われたと伝わっている。

遅れましたが節分祭の関係者のみなさま、お疲れさまでした。

さて次回は県議会で行われた第一回定例会の模様をお届けしたいと思う。茨城県教育委員会では生涯学習センターの解体の計画があり構想が議会で浮上して来た。見逃せない案件なので週末までにアップしようと思う。

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