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初冬の成田山真福寺


   

2015年12月の初冬、常陸太田市金井町にある成田山真福寺に訪れた。

金井町の成田山は板谷坂の登り口左側から入る道と東三町の「なべや」の南側階段を降りて左側から境内に入るコースがある。今回は表参道とも言える板谷坂から辿ってみた。明治32年に勧請された真福寺は、鋳物業界の小泉源三郎氏が中心となって勧請されたと伝えられている。

その当時の鯨ヶ丘は鋳物業や煙草をはじめとして各種問屋業、酒造業が絶頂の頃で板谷坂にある現在の伊勢神社のある場所には芸者の検番が置かれていた。その時代の金井町は総じて職人の町とされていたのである。

真福寺のユニークなところは葬祭系ではなく祈祷系として明治以来より信仰を伝えてきているところだ。御岩神社で在家の行者として活動している友人Gが法事を手伝う事が増えてきているが最初の擦り合わせは護摩の焚き方から始まったと聞くに及んで祈祷系の面目躍如と感じ入った次第だった。

最近境内では補修や書類の整理が始まり物によっては常陸太田市の教育委員会の判断を仰ぐ事があったらしい。現在調査中と聞き及んでいるが近日中にサプライズな発表があるかもしれず期待している。

2016年の除夜の鐘を聞く時分から恒例の護摩法要が行われる。家内安全、商売繁盛の祈願に訪れるのも面白いと思う。

成田山真福寺の節分会


   

2月3日に金井町の成田山真福寺で夕方6時から節分があったので撮影にでかけた。

真福寺は明治23年に常陸太田市の鋳物業の中心的な存在であった小泉源三郎氏が音頭をとり千葉の成田山から勧請されたと記録されている。鋳物は当時の常陸太田市では代表的な産業であったようで若宮八幡宮の鳥居横と拝殿に寄進された鋳物が残っていた。鳥居横の鋳物の記念碑は残念ながら東日本大震災で倒壊し拝殿にあるものしか目にする事ができなくなったと記憶している。

勧請以来、節分は現在まで伝わってきたのだろう。立地している場所は金井町1894となっている。当時の金井町は職人の町として知られていた。ちょうど裏手が東三町のなべやさんとなっており、なべやさんの隣の道から石段を降りて行くと左手に成田山がある。

また板谷坂を登って行く途中の左手からが正式の参道らしく、そこから石段を上って成田山正面に上がる事も出来る。両方ともちょっとした急な石段で明治に勧請されてからのままらしい。歩いてみると誠に風情のある石段となっている。近辺は、お岩神社、法然寺、板谷稲荷神社、伊勢神社、秋葉神社等、よくぞこれだけ寺社が密集したなと感心するくらい見所が多い。

このあたりは昼と夜では見える風景がまるで異なるような気がする。夜になって冷え込んで来たので撮影が終わって新柳で一杯やろうかとも考えもしたが車に乗って来たので後ろ髪を引かれる思いで帰宅した(笑

今回は夜の撮影となるので感度がよいNikon D5300を持ち出したがあやうく闇夜にカラス状態になるところだった。念のために持って行った携帯用のライトがあったために助けられるかたちとなった。昼間でもインタビュー相手によく使うがLEDになったおかげで電気も食わず熱もでないため重宝している。

動画にはノイズが相当出たがWeb用圧縮の過程で動画の粒子ノイズは圧縮の前後比較で相当押さえられた。信号圧縮も悪い事ばかりではないなと思ったしだい。次回は育成会の療育の旅をアップする予定(予定がつまってきて焦りまくっている)

正月の村松山 虚空蔵堂


   

1月2日早朝に東海村にある村松山 虚空蔵堂に訪れた。前回は絵画処理した静止画像の構成だったが今回は眼レフによるテスト撮影を兼ねていた。

村松山虚空蔵堂に行ってみる !?(油絵風)
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=349

虚空蔵堂についての話は上記で述べているので今回はテスト撮影の話に絞る。ただひとつだけわからなかったのは除夜の鐘で煩悩を落とすと言う事で、お寺で鐘をつくことは、なるほどそういう考えもあるかもしれないと思っていたが、本州では正月にお寺に訪れ厄落としを行う事が一般的なようだ。すると神社で行われている厄払いとはどのように違うのだろうか?落しと払いとでは機能的にどう違うのだろうか等と考えてしまう悪いクセが筆者にある(笑)まぁ宿題としておこう。どうもキリスト教圏で行われている悪魔払いとも異なり中国の道教的な匂いがするなぁ〜との思いだ。

前日の御岩神社の撮影では露出を常に効かせた状態だったため人の動きやズーム等で別な物体が現れると測光が敏感なために明るさにやや不安定な傾向が出て来た。そこで今回は一度測光したらロックしてしまった。いわゆるAEロックという状態である。そのため画像の明るさは微動だにしない安定したものとなった。

見た目は写真の中を人が動いているかのような錯覚に陥るかのような仕上がりとなっている。あえて後半に三重の塔を人間を入れ込まないで使っているがどのように見ても写真にしか見えない。使っているレンズは18-140mmのキットレンズだがよく切れている。どうしてこのように解像度がいいのか手を休めて暫く考え込んでしまった。デジタルカメラの画質を決める要素はレンズ、画像素子、画像処理エンジンの三要素と言われているが、筆者的な感触ではレンズの要素が一番重要ではないのだろうかとの思いが強くなっている。

後者の2要素は日進月歩で進化している。悪く言えばボディは日進月歩で陳腐化しているわけだ。筆者的な感じでは、この2〜3年でこの後者の2要素がようやくレンズの性能を解像度のよいビデオアウトとして出力する段階になってきたとの思いが強い。そもそも一眼レフはレンズ交換をすることにより、ありていにレンズの描写力が個々に再現されるシステムだという偏見を筆者は持っている。これがプロ用や業務用であったならば何も云う気はないが家庭用のエントリー機種がHDMIを使ったシステムではあるが、ここまで来ている事に筆者的には事件だったのだ。

まぁ、今後もマイペースの検証を続ける事になる。ボケ足を制御するための可変NDフィルターの実験や夜間撮影するためのF1.8fixの明るいズームレンズの検証(これがボディより高い(泣))超望遠レンズの検証(これもボディより高い)など予算の関係もあり一気には難しいが、現状では撮影の軸足を一眼レフに移動させつつある。下手な手動ズームが増える事となるが勘弁してもらいたい(笑

次回は、いよいよ集団であるく消防団出初め式の予定

村松山虚空蔵堂に行ってみる !?(油絵風)

ファイル 349-5.jpg


   

友人G君とラーメン屋に行った時、たまたま村松山虚空蔵堂に行って見ようかという話となった。といってもポケットにはデジカメしかなかったので撮影後は油絵風に後処理しよかなと思っていた。

前回は動画系のカメラテストのお話をした。ポケットのカメラはPanasonicのDMC-FT3というデジカメで、見た目は完全なおもちゃだ(笑)ところが水深12mまでの防水仕様がされており更にGPS、高度、方位、気圧の測定機能があり、映像も録画できるといった機能がある。いずれ水中撮影にも挑戦しようと思っている。このため雨が降っても躊躇なく静止画は撮影できる。画角はハイビジョンの2倍の大きさで撮影できるため編集する時に画面のトリミングができる。

次世代の動画4K環境を編集時にトレーニングしている錯覚に陥る(素材は静止画だが)そのため2倍程度のズームやパンなどを躊躇なく行えるという訓練ができるわけだ。もっとも最終的には画面分割用の自作プラグを使って漫画風の面割を行いコミック風な仕上げを狙っている。まぁそのための準備として時々吹き出しを使って文字をいれるなどの荒業を行っているが動画の編集理論に吹き出しなどの手法はない(笑)多くは画面転換のバリエーションや合成、スーパーのバリエーションの表現が多い。

画面分割はコミック表現として使う場合、音との親和性をどのように考えるかが筆者的な課題となっている。まぁ課題といえばデジカメの画面を、そのまま使うのも、このようなアプローチをする場合には抵抗があった。コミックはデフォルムや色を数を減らして色彩感覚を丸めることによってイメージをシンプル化することに成功している。デジカメ画質では絵のリアリティーがありすぎて逆に筆者的に使いづらいのがあった。今回は油絵風な実験と次回は水彩画風の淡い動画を予定している。これらの実験を繰り返し来年はコミック風分割画面に挑戦しようと思っている。

さて村松山虚空蔵堂の話に戻ろう。伝説によると大同2年(807年)に空海(弘法大師)によって創建されたとされる。空海が真言密教を日本全土に広めるために各地を巡化した際に、この地で海の彼方に光る物ありとの話を聞き、それを引き上げさせたところ大きな老木であったので、それを等身大の虚空蔵菩薩像に刻みこの地に安置したのが始まりとの伝説がある(Wikipedia)

現在の高速道路の幅や総距離が同等であったと言われるスーパー古代道が完備されていた時代なので色々な史実に残る人々が常陸国(茨城県)に足跡を残している。それにしても空海も来てたのかぁ〜との思いだ(伝説である)当時の仏教は戒律を中心とした原始密教と言われる時代だった。空海は真言密教(真言宗)を作った。これは鎌倉時代に飛躍した現代の仏教とは教義が根本的に異なる。

この原始密教のオフィシャル化の境界は753年に来日した鑑真まで遡る。孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任されことが始まりと筆者は考えている(ちなみに女帝であった孝謙天皇は弓削道鏡に皇位を譲ろうとした宇佐八幡宮神託事件の主人公だ)戒壇は戒律を受けるための結界が常に整った場所であり、授戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになる。つまり鑑真以前は手続き上で言えば留学などで授戒された僧を除き、日本には正式な僧や尼がいなかったという話となる(だから雑密という小馬鹿にしたような名称なのかもしれない)

余談となるが結界という言葉を見るとちょっと緊張する。入っていいかどうか躊躇することがあるからだ。その場所が外部からの侵入を防ぐ結界なのか、それともそこにいるものを外に出さないための結界なのか悩むことがあるからだ。そこにいるものが勝手に歩き回れたら困る結界が存在することを考えるのも面白い(考え方だが)

釈迦が布教したエッセンスは戒律に尽きる。仏教徒は僧と俗人に大別されるが僧には250の戒律がある。この戒律を守る誓いが受戒といい出家した僧は律蔵(戒律の説明書)、経蔵(お経のコレクション)、論蔵(お経の学者論文)の三蔵を勉強し受戒された戒律の定義から研究しなければならなかった。この修業の難しいと思われるところは、知られているように釈迦は王族で、最初の釈迦の弟子は貴族や大商人であったことである。現在から見ると不労所得者でないと修行はできないのかという感じを受ける。修行に使われる自由になる時間が必要と思われるからだ。

鎌倉仏教が独創的だったのは現在は末法の世なので末法の世に修行などを行っても無意味だという哲学に立脚している。仏に成れるよう精進しますという意味のお題目を唱えることで救われるとしたのだ。そのため爆発的に信者が増加した。これは革命的な変化だった。

宗教は時間と土地柄(習俗)によって変容していく宿命にある。仏教はインドで生まれ中国を経由して日本に根付いている。現代の日本仏教会を釈迦が見たら何というか、考えてみるだけでも面白い。村松山虚空蔵堂の境内にも世俗的な出世稲荷とか開運堂などがあり、それはそれで楽しめる。ちなみに境内を歩き回っているときに大きな地震の揺れを感じた。隣は東海原発だし海は近くにあるのであわてた(笑

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