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明世神社の謎(常陸太田市亀作町)


   

4月2日に亀作町にある明世神社(あけせじんじゃ)に訪れた。

常陸太田市の神社群の中でも亀作町にある明世神社はユニークな伝承が残っている。それは水戸藩主であった水戸光圀が祀られているご神体を一覧し、上世の物にして後世の及ぶ所にあらずという言葉が残されているからだ。

水戸藩の財政を傾けて大日本史の編集プロジェクトを立ち上げた光圀の語る上世とは一体いつの時代の話なのだろうと興味が湧き上がるのは仕方がないだろう。光圀の見立てに狂いがなければ間違いなく国宝級の御神体が眠っている事になる。

4月3日に祭りが開催されると聞いていたが天気予報が雨と言う事で2日に撮影をした。祭り当日は雨日和でカメラを持たずに訪れた。拝殿がオープンされていたが上がり込むわけにもいかない(笑)参拝を済まして後にした。確認はしていないが光圀による別の伝承も伝えられている。それは元々この神社の名称が「悪徳神社」と呼ばれていたらしい。それを黄門様が「明世神社」と改名したというものである。

アマテラス系、出雲系の両方の大元の祭神を祀りながら「悪徳」という神社の名前も想像を絶するがこれも何らかの言われがあるのかもしれない。何かしら古代の都市伝説じみた条件を兼ね備えたユニークな存在であることは確かなようである。

三才町 甲稲荷神社の初午祭 2015


   

2月11日に三才町にある甲稲荷神社で開催された初午祭をお届けする。

一眼レフのD5300を持ち出しNinjaで収録を行ったがキットレンズながらNikonの純正の色を楽しむ事ができた。稲荷神社は五穀豊穣の神様として特に穀物が専門の女神とされている。そのため米作地帯では非常に多く分布している。

元々は帰化人であった秦氏に関係が深いとされているが、その出目を辿れば秦の始皇帝まで行き着くとされている。朝鮮半島から渡来した時には産業系の職能集団としての役割が大きく、その当時の朝廷によって優遇されていた。その足跡は日本国中に存在しており、近年では産業の神様として専門分野を拡大している。

その神様が穀神として農村部では変わらぬ信仰を伝えている。記紀等の記述では出雲系の神様と書かれているが元々県北地域では出雲系の神様が多く、月末に開催される西金砂小祭礼の本尊も出雲系である。物部氏の影響もあるかと考えているが面白い場所に住んでいると思っている。

鎮守不思議伝説(西河内中町)


   

西河内中町(にしごうとなかちょう)にある天満神社に訪れた。4年程前に家庭用カメラでのネット動画挑戦を行った時に撮影している(今回はリメーク)

元禄3年(1690)に光圀の命により現在の位置に移されたと言われているが鎮座地を巡り氏子間で論争が起きたらしい。その時、夕立とともに雷鳴が響き愛宕の山に稲妻が走った。

その閃光に従って愛宕の森に天満宮を建立したと言う。つまり元々愛宕神社があった場所に天満宮を鎮座したと言う経緯を辿った。ところが映像を見るとわかると思うが、どちらかというと天満宮のある後ろに愛宕神社が押しやられる感じになってしまっている。これが原因となり、色々怪異が起こったらしい。宮司さんが祝詞を奏上中に天井に持ち上げられたり(笑)、大火が発生したり、ゴユガマ神事の最中に愛宕神が、とうとう怒り始めたと言う。

「天神サマ、天神サマト皆ガ呼ブガ、ココハ私ノ屋敷デアル。天神サン、天神サントハ言ウガ アタゴサント呼ブ人ヒトリモナシ」と怒りのお告げを賜ったらしい。村人は「オアタゴサンヲ忘レデハ申シワゲネー」と言ったという(上記は西河内聞きある記より引用、転載)その後、驚いた村人は氏子総代が注連縄(しめなわ)を張る時は愛宕神社から優先するようになり、祭事は両者平等に行うようになったと言う。

天満神社は菅原道真を主神として今でこそ学問や疱瘡(天然痘)に霊験があると持てはやされているが平安期では祟り神として朝廷を悩ませたと伝えられている。その祟り神に対して怒った愛宕さんはさながら妬み神として村人に出現したという、誠に人間ぽい話が伝わっている。相反する属性を持つ神々が同一場所に存在することはよくあることだが、祟り神 vs 妬み神という話になることは滅多にない。

天満宮の御神像を見ることはできなかったが昭和34年に県の文化財に指定された。鎌倉時代末期の制作とされているらしい。また発見された徳川斉昭の和歌を記念して昭和36年に記念歌碑が建立されている。

盾艦を用九造りて我乗らば
 神の御国の守りならまし

明治21年(1888)に国内で天然痘が大流行したため太田若宮八幡宮に出社した記録が残っている。久慈川、里川、西河内川流域の住民の信仰が厚く、大正6年(1917)より那珂湊、日立方面の参拝者で連日露店が並び賑わったという。境内は非常に良く手入れが行き届いており、地域に敬愛されている様子が偲ばれ気持ちがよい空間となっている。

お時間があれば訪れてみてはいかがであろうか

天満神社 常陸太田市西河内中町239

以下は技術的な話となるので興味がない方は飛ばしてください。部品をコツコツ集めながら組み立てている撮影システムが90%完成したので印象に残っていた天満神社に訪れた。記録周波数を上げて収録する実験を継続しているが、たまたまCanonの放送用TV-Zoomが棚ぼたで手に入った。このレンズが35mm換算で32mm-512mmでf1.8通しという一眼レフではありえない環境となることが解った。

幸い中古でも数万円はするズームリモコンも付いていたので電源を選択し電動ズームが出来るようにした。今回も3カット程使っている。こうなると発想が根本的に違ってくる。カメラをイメージセンサーとしか見えなくなってしまうからだ。元々眼レフで撮影し始めたのも動画で写真のようなガンマーで撮影出来たら面白いという遊び心で始めている。カメラデザインとか手で持った感じとかシャッターの音とかにしびれる等という価値観には興味がなかった。

むしろ痺れるような解像感やドキュメンタリーに向いている映画のような質感を求めていた。リグが完成したら公開しようと思っているが使っている部品はほとんど個別に発注しており(数ヶ国にまたがっている)まるで病気のオタクのような仕上げに近づいている(笑)語り始めると溺れてしまうのでこの辺で止めておくが、結果として大きな欠陥も見えて来た。

重い、重いのだ(笑

ということで作っているシステムは時間に追われないこのようなマイペースな撮影に使っていく環境となるであろう。そろそろ、いい年になって来ているので足がもつれて倒れそうになったら考え直さなければならないようだ。存外、世の中は難しい(笑

元旦の御岩神社


   

2014年の元旦は隣接する日立市入四間町にある御岩神社を訪れた。

カメラテストも佳境に入り、今回は人を入れ込み若干のズームの実験をして新たな課題を見つけ次の撮影に対策を見いだしている。撮影アップの次回からの予定は村松虚空蔵堂、消防団出初め式、成人式、鳥追いイベントと続く。これらの日程を通しビデオカメラと比較して何が良くて、何が出来ないかの輪郭がほぼ見えてきている。これはこのページの最後にまとめてみる。

御岩神社の縁起ははっきりしていないが域内に縄文期の祭儀用に作られたと推測されている土器が発掘されているところを見るといわゆるホーリースペース(聖地)であった可能性が大きい。地元伝承では十尺ほどの光体が回転しながら夜間に飛翔し御岩神社近辺に落ちたことから地元で祭られたという話が残っている。僧侶や禰宜の夢に現れたなどと違う、およそ位相の異なる縁起が伝えられている。なにやらUFOじみているのだ。

そのためでもないだろうが中世期には山伏の修行霊場となっている。神社は188柱の神仏が祭られている。神仏習合時代の色が濃く残っているのだ。戦国時代の雄であった佐竹氏は眷属を山伏の長に送り込み、山伏を諜報組織として機能させていたのではないかとの思いが筆者から離れない。これは江戸期に成立した水戸藩の水戸光圀が真言系の仏閣を整理したことと関係があると独断している。そうでなければ現在の水府地区にあった100以上の真言系の寺院が廃された理由がみつからないからだ。

この時、御岩山は水戸藩の国峰とされ御岩神社は寺領を寄進され命脈を保った。明治政府は宗教政策として廃仏希釈行った。これは神社から仏教色を払拭し神仏を分離するという考え方で、大日本帝国憲法下の主権は天皇に存するという文脈である。このため現在は茨城県有形文化材に指定されている大日如来像も破壊棄却の可能性が高まり御岩神社では仏像を解体し神社の床下に隠したとの話が伝えられている。カメラを覗いていて撮影冥利に尽きる題材であった。

最近になって御岩神社の域内は国内でも有数のホットスポットであると有名になっている。霊能者が訪れると感じる物があるらしい。専門家の言によると世界有数の場所と言うことである。実に面白いのだ。

さて一眼レフの話に戻る。興味のないかたは飛ばしていただきたい。
あたりまえの話だがビデオカメラと一眼レフのカメラとは使用目的が違う。筆者的な独断で言うと時間に対する考え方が違うのではないかという思いだ。これは撮影する対象をどのような考え方で撮影するのかという根源的な違いのような気がする。

ビデオカメラは対象物を時間軸の流れの中で構成しようとするが、静止画カメラは瞬間の表情を記録し1枚の写真を何分や何十分も見せる事に耐える力がある。このアプローチの違いが進化の違いを生んでいる。筆者が常陸太田で映像日記を始めた時分にもっとも悩んだのは、筆者の出身業界がもっぱらCMであったために15秒、あるいは30秒で完結する方法論しか持っていなかったため、筆者的にとてつもなく長く感じる3〜5秒のカットを使っても見る人にとっては短いという感想だった(笑

それから1カットを時間をかけて編集するようにしてきたのだが慣れるのに大変だった。結局、作品の長い事に対応出来るようになってから一眼レフが気になりだした。写真芸術には組み写真という手法がある。この組み写真的な手法に時間軸を加えると筆者の行っている撮影・編集手法に近いのではないかという気になり方である。

もしかしたら高解像度の絵とテレビの加色法とは異なった、印刷物に使う減色法の色の再現を楽しむ事が出来るのではないかという思いだ。これはありていに言うとフイルムの画質、つまり映画の画質にアプローチ出来るのではないかとの考えだった。まぁそれが今回の一連の実験につながっている。

結論的に言うと昼間の時間帯は圧倒的に眼レフが有利となった。夜や暗い室内はビデオカメラが有利という結論となった。細かく書くと長い公演や郷土演芸のように長く続くものも眼レフは向かない。色々原因があるのだがプロ用や一般用の標準レンズにFの低い明るいレンズがない事で1/60秒シャッターのビデオ動画は厳しいということだった(ISOを上げるにも限界があった)しかし発色は減色法のものと感じさせるものがあった。そして昼間は基本的に解像度とS/Nがいい。

まぁ、映像日記の題材は9割以上は昼間の時間帯なため撮影に支障が出る確率は低い。今年は映像日記一眼レフ元年となるだろう。マクロや900mmクラスの超望遠も今年中に対応出来るだろう。またなかなか対応出来なかったレンズのボケ足などもハンドリングしたい等と思っている。動物園のトラの顔が画面一杯に広がれば動画の表現領域が広がる。興味は尽きない。

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