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地域教育学級(エコミュージアム)


   

5月26日に常陸太田市内堀町にある進徳幼稚園で太田公民館共催で開催された地域教育学級(エコミュージアム)の模様をお届けする。


太田公民館公式行事でもあるこの催しは、元太田公民館長の益子 治先生がライフワークとして市内の河川域に棲息する生物の解説を市内6〜7ヶ所の幼稚園児を中心に毎年行っている。普段見慣れない生物を目の当たりにすると大騒ぎになるそうだ(笑)

相当数の生物を見ながら筆者的にも驚いたのは、皮膚呼吸をするサンショウウオと肺呼吸をするサンショウウオの存在で肺は進化学的には浮き袋が転化して出来上がったと考えられている。つまり皮膚呼吸類とは相当遅れて海からやってきたと考えられる。

にもかかわらず、個体の形状が非常に似通っていることに驚いてしまったわけだ。気をつけないと環境学にハマるな等と考えながら撮影していた。

愛宕神社の巨石(常陸太田市上宮河内町)

     

     


上宮河内町で開催されたお宝さがし会(地元学事業)の第一班の報告に愛宕神社の鳥居、愛宕神社前の巨石、愛宕神社の本殿があり出かけて見ることにした。岩とか巨石という文字を見ると猛烈に見たくなるクセがある(笑

というのは神道と言う言葉の出典を辿ると「日本書紀」用明天皇紀に「スメラミコト、仏法(ホトケのミノリ)をうけたまひ、神道(カミノミチ)を尊びたまふ」という記述にさかのぼる。これは公式史による仏教伝来から30年程経過している時期に記述されている。この記録の衝撃性は天津神の後裔である天皇を中心に無意識に神と一体となって生活していた当時の在り方が、最高絶対である「本尊」を建てる仏教に対する対抗軸として、神道と言う言葉で表現しなければならない時代に移行したことが読み取れることだ。

では仏教伝来以前の神社の形態はどうであったかという疑問が当然湧き上がってくる。それが岩や山であったり、巨石が本体であったり、現在の社殿形式とは異なっていたと言われている。ちなみに、その両者の調和を最初に試みたのが「修験道(山伏)」ではなかったかと筆者は推察しているがここでは深入りしない。幸い常陸太田にはこれらに関係する史跡がたくさんあるので、いずれ考察出来る機会があるだろう。以上の理由で筆者は巨石に引きよせられるわけである。

参道に至る道路は、地元の人でなければわからないだろう。筆者もそこら中を聞き回りながら参道にたどり着いた(地元では火伏の神様というのが一般的だ)、そこからカメラを持って休み休み登った。鳥居がすぐに現れた。そこから巨石まではちょっとある。もし挑戦される方がいられればスポーツシューズをお勧めする。巨石が現れた時はちょっとした感動物だった。思わず、あひる文字(神代文字)がないかと探しまわったほどだ(笑

造形が面白いのだ。自然物にはとても見えなかったが専門家の所見を期待したい。そこからちょっとしたところに愛宕神社があった。思えば市内全域に渡って愛宕神社が多いが、その昔は火災が猛威をふるったことが容易に想像出来る。

西河内中町 鎮守不思議伝説

お宝さがし会(地元学事業)は茨城県常陸太田市教育委員会文化課のエコミュージアム推進室が後援する運動であり詳しい活動内容は以下のコラム映像で解説している。

赤土そばリンピック(お宝探し会報告会)

また関連したコラムは

赤土お宝さがし会に参加した。

大岩さま伝説 (上宮河内町)

常陸太田市の地元学お宝ミュージアムは
地元学お宝ミュージアム

防人の歌

     

     

那珂市から常陸太田市の境界を流れる久慈川の旧国道349号線上に架かっている幸久橋(さきくばし)の常陸太田寄りの たもとに「防人の歌碑」がある。

防人は663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したため九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。奈良時代に成立した『万葉集』には防人に徴用された兵や、その家族が詠んだ歌が100首以上収録されており、防人歌と総称されている。

738年に記録された「駿河国正税帳」によると駿河を経て東国に帰る防人の人数は1083人とされている(内訳は伊豆国22人、甲斐国39人、相模国230人、安房国23人、上総国223人、下総国270人、常陸国265人であった)記載されていない遠江国、駿河国、武蔵国、上野国、下野国の人数を加算すると2000人以上と考えられている。

755年に丸古部佐壮が作ったといわれる歌は

久 慈 川 は幸 く あ り 待 て
潮 船 に真 揖繁 貫 き
吾 は 帰 り 来 む

とある。大意を読むと、久慈川は無事で私を待ってくれ、潮船の櫂を漕いで私は帰ってくる。という強い望郷の念を感じる。

作者の苗字から現在の常陸太田市島町 小字 の上鞠子か中鞠子、下鞠子近辺が久慈川北岸にあたるので丸古部佐壮の出身地ではないかと推測されている(コラム映像でも近辺を撮影している)この歌の幸久が出典となり幸久橋や幸久小学校の名称となっている(丸古部がどのような専門集団だったのかは謎)

265名の防人を派遣出来る地力が当時の茨城に存在していた事になるが、更に別の負担があった。700年代の奈良時代に常陸国は蝦夷征討戦の兵站基地となっていた事である(蝦夷征討は800年代の前半まで継続している)つまり歌が歌われた時期の常陸国は北の蝦夷、南の防人と全く忙しい思いをしながら日本の国を軍事的に支えていた時期なのである。

ちょっとした公園風の場所には、祀られている神がはっきりしない水天宮と治水関係の石碑もあった。明治期にいたるまで久慈川の氾濫はこの地方の大問題であったのであろう。地図上で見る川の蛇行状態を見ても想像される。

車で橋を渡ってしまえば見過ごすような所に歌碑はあるが、この川から九州まで出かけて行った当時の人の心情はいかほどであったことを偲ぶことができる。隣接してJRの線路があったのでラストカットに使ってみたが妙にしめっぽくなってしまった(笑

大岩さま伝説 (上宮河内町)

     

     


上宮河内町で開催されたお宝さがし会(地元学事業)で大岩という言い伝えのある岩が出現した。場所は金砂の湯からすぐの所だ。

地元学お宝ミュージアム


【衛星写真は地図をクリックして設定】

縁起も何も定かではないが地元では「岩の上に乗ると雨が降るといういわれあり」という事だそうだ。旧金砂郷村史を調べてみたら掲載されていない。ところが場所を近所の人に聞くと あの梅が咲いているあたりという(笑) 立派に地元では認知されているのである。

これは美味しいと思い早速撮影したのが上記のコラム映像である。隣の赤土町では日照りになったら神輿を引っ張り出し全村をねり歩いたという(少なくとも50年以上昔の話だ)。上宮河内町では入れ替わり立ち替わりで村民がこの岩の上を登ったのだろうか?

その日は天気もよく その情景を思い浮かべながら撮影をしていた(笑

■■■ ビデオ・メールについて ■■■
サイト映像をYouTubeに仕様変更が終わり、新たにYouTube用のビデオ・メールのスクリプトを書き上げた。今回は大型画面でメールが送れる仕様になっている。ビデオ・メールに拘るのは以前コラムでも言及したと思うが効率的に映像情報を発信する方法論の一環として捉えているからだ。

ハイビジョン日記のビデオ・メールは送られた人が画面を見ながら別の人に即、送る事が出来る仕様(自己増殖型)となっている。極端に言うと重要な情報を最低3名の方に送って下さるように文面で依頼すれば10階層で10万人、20階層で日本の人口を超える設計であるわけだ(使用ルールを設定しているのでそんなことにはならないが(笑))

上記は幾分極端な表現となっているが非営利活動に類した映像情報をボランティア・ベースで拡散しやすい設計としている。興味のあるかたはプレビューでごらんください。

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