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地ばやし「おっしゃい」(常陸太田地ばやし保存会)


   

2014年5月11日に常陸太田市の若宮八幡宮例大祭で奉納された、常陸太田 地ばやし保存会による地ばやし「おっしゃい」をお届けする。決して20日から始まる市議会議員選挙にあわせて「おっしゃい」をアップするわけではないので念のために(笑)

「おっしゃい」には鮮烈な印象がある。西金砂神社小祭礼の和田会場では、それまでのおごそかな神輿の移動から芸者さんを乗せた各町内会の山車が揃い踏みし一斉に「おっしゃい」の演奏が始まったのだ。何かしらのカルチャーショックを感じたのだろう暫く唖然として見ていたのを思い出す(来年の小祭礼が楽しみだ)

地ばやしは落語や講談の囃子ものの流れから分化しているが「おっしゃい」は芸者さんも得意としているように廓芸に近いのでないかと筆者的に思っている。過去にもアップしているので興味があればご覧になって欲しい。最後に芸者さんの「おっしゃい」が見られる。

地ばやし「おっしゃい」の競演
https://www.youtube.com/watch?v=7kS1C28MREM

常陸太田 地ばやし保存会に感謝します。

結城紬を語る(長幡部神社との関連を探る)


   

7月14日から16日にかけて結城市に活動の拠点を置くNPO法人 きもの文化を大切にする会によって結城紬の講演会と展示会が開かれた模様をお届けする。(今回は講演もあり17分の仕上げになってしまった)

結城紬と常陸太田市にある長幡部神社とは浅からぬ関係にあると筆者は推測している。721年に成立した常陸国風土記(ひたちのくにふどき)には

…郡東七里、太田郷、
長幡部之社。古老曰、珠売美万命、自天降時、為織御服、従而降之神、名綺日女命。本自筑紫国日向二折之峰、至三野国引津根之丘。後及美麻貴天皇之世、長幡部遠祖多弖命、避自三野、遷于久慈、造立機殿、初織之。其所織服、自成衣裳、更無裁縫。謂之内幡。或曰、当織絁時、輙為人見。閇屋扇、闇内而織。因名烏織。丁兵丙刃、不得裁断。今毎年、別為神調献納之。…

「…珠売美万命が天から降ったとき、衣服を織るために綺日女命を伴ってきた。初めは高千穂の峰に降り、そこから三野(美濃)引津根の丘に移った。その後、長幡部の祖である多弖命が美濃から久慈に移り、機屋を造って初めて布を織った。命が織った衣服はそのまま着ることができ、改めて裁縫する必要がなかった。だから命の織った衣服は“内幡”と言われた。またある人は“あしぎぬ(太絹:上質の徴税用の絹)”を織るときは人目につかないように、部屋を閉め切り闇の中で織ったので、“烏織”(うつはた)と名づけられたという。その布は兵士の刃も断ち切ることができない。この布は毎年、神への供え物として奉納している。…」と記されている。

長幡部神社
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=1

この記述を見る限り長幡部一族は起源を天孫降臨までさかのぼり、居住地を九州、愛知、茨城と変遷してきたことがわかる。また、近辺にある前方後円墳1基、円墳20基は幡山古墳群とよばれ、周辺に存在している線刻壁画が描かている幡バッケ横穴墓群ともども長幡部一族に築かれたと筆者的に考えている。

この様に特定の職能集団が部の民(べのたみ)として墓所を作ったと推測しているが、常陸太田市内では他に例を見ない。常陸太田市には多くの古墳がある。例えば古代政庁があった久米から梵天山古墳までは直線的に古墳が散在しているが、職能という意味ではなく政庁の重職者(地方政権の代表者)が作ったと考えた方がわかりやすい、権力者(又は権力者一族)を職能というのは難しい。

話がそれてしまったが正倉院には常陸国筑波郡の信太郡・茨城郡・行方郡・鹿嶋郡・那賀郡・久慈郡などの墨書のある奈良時代の綾という織物の遺品がいくつも遺されている。それが時代を下って室町時代に結城の地を治めていた結城家から室町幕府や鎌倉管領に献上品として使われたので、その結城家の名をとって結城紬と呼ばれるようなったという流れという(ただし時代の変遷か絹の太さは根本的に違う)のが現代の考えとなっている(茨城の綾は長幡部から広がったとされている)

結城紬
http://www6.ocn.ne.jp/~oyamashi/tumugi-01.htm

ともかく手間と技能が必要な工程である事は理解ができた。いったい大陸でどのくらいの時間をかけて、この技術が確定したのだろうか?

シルクロードの東の終点にあるのが日本だった。この技術が明治まで連綿として続き明治期では輸出の重要品目までなっていた。気の遠くなるようなアジアに生きた人間の営みである。

着物は別名、呉服とよばれている。これは三国志にある呉であり222年 - 280年に存在した中国の長江流域に建てた王朝だ。呉国でのフォーマルなウェアーが呉服である。呉人は戦乱などを避けて呉から日本に集団亡命移住したという説がある。

あながちその説が悪い筋ではないのは1999年に江蘇省と太宰府の遺跡の人骨がDNA分析によって一致したという話がある。まぁそうでもないと着物もこんなに連綿と続かなかったのかなぁとも思うがサンプルが少なすぎる。中国では文化大革命が終わり日中友好の流れが強まったときに多くの人文系の中国人学者が来日した。たまたま札幌にきた学者に何が一番見たかったか尋ねた人があり、その学者は三つあると言ったそうだ。それは

1.畳の部屋
2.着物(呉服)
3.その状況で三つ指をついている女性の姿だそうだ。

とりわけ着物(呉服)を着た女性の姿が頭では理解しているが存在しているのが信じられないとの話だった。まぁ三拍子が揃うのは現代の日本でも芸者の置屋しかないだろうなと思ったが1と2は現在でも違和感をもって見る状況ではないなと感じた。

中国ではその全てが失われたニュアンスだったが日本では着物(呉服)が現在までも命脈を保っている。同じ文脈でインドで生まれた仏教も葬祭では欠かせないものになっている。あらためて日本は不思議な国だなぁ〜との思いがするのだった。

鳥追いワーホイ 2011 in 上河合町

     

     

2011年1月15日に常陸太田市上河合町で開催された「鳥追いワーホイ」の模様を お届けする。

昨年に撮影した時に、鳥追いの焼け落ちる瞬間を撮り逃してから、ずぅ〜っと心残りだった(笑)今年は手持ちながら何とか撮ったが、ともかく焼け落ちるのが早かった。恐らく江戸期に作られた人家が火事になった時は、とんでもなく早い時間に火の手が回るだろうと思いが及んだ。今年は雨の降る予報が出ていたが天候は持ったようである。ただ、風が強く、周りに人家がない場所でないと、このイベントの実行が難しいと思わせた。昨年のワーホイはこちら「鳥追いワーホイ(上河合町)

鳥追いは昭和30年代までは一般家庭でもようされていた行事と聞いた。田畑の害虫を追い、無病息災を祈る正月のイベントだったようだ。今年の燃えっぷりもいいので、ご覧になって欲しい(笑

さて、今回は映像的にちょっと実験をしてみた。ナレロイド(人工音声)の使い込みが終わり、静止画の人物像にナレーションとリップシンクするCrazy Talkを使用してみた。このソフトは2009年にセンセーショナルな登場をした。目と口を設定するだけでリップシンクのハンドリングがしやすい(鯨ヶ丘あかりである)

今回は2Dの素材を使用してナレーター風の登場をさせたが、3〜6ヶ月かけて3Dで完成させるのが目下の目標である。これはPoser8を使用してみようと考えている。というのもマイクを持ったキャラクターのポーズ設定は3Dの方が扱いやすいからである。TVでのリポーターの登場は官邸の前で立ち、マイクを持って頭だけ動いて話しているシーンが多いからポーズのアレンジは少なくて済む。

まぁ、個人が主宰する非商用型の映像ブログなので何でもやらなければならなく、リポーター・スタイルの構成を狙うとしても、まったりスキルを積んでいかなければならないのが、たまにキズということなのだろう。夏口までにはリアルな3Dキャラクターのリポーターが闊歩するようなところまで持って行きたい(笑

最後になりましたが上河合町の関係者のみなさま、お疲れさまでした。

昭和初期の常陸太田の芸者さん

ファイル 217-2.jpg

本日は写真勝負というわけでもないが知人(煉瓦屋のリエちゃん)のうちにあった古い写真帖から昭和初期の旧太田町にいた芸者さんの写真(クリックで大)が出て来たので掲載してみた。合わせて時代背景を理解するために昭和8年の正月に東京日本橋の三越本店で開催された茨城縣物産宣傅会の会場で配られた非売品の茨城縣物産名所案内のPDFを添付する(PDFは11M弱あるのでダウンに時間がかかるかもしれない)


茨城縣物産名所案内のPDF  

板谷坂を下った現在の伊勢神社のあたりに芸者さんの検番があったと伝えられており写真はそのあたりかと思ったが、よく見ると右上の空抜けに電柱が見える、そこで西通りか東通りの電柱かもしれないと思った。位置的には若柳か新柳の小路かもしれないと感じているが特定出来なかった。

頭の感じがいかにもというスタイルで風情がある。古い着物を扱っている花てまりの奥さんに聞いてみたら、高級品でカラーの写真でないのが実に残念だと語っていた。この当時のカラー写真は彩色写真と言う技術があり、簡単に言うと職人が1枚づつ手書きをするものである。そのため同じ写真(観光写真)であっても色が違うものがざらにある(笑)まぁ、白黒でいいのかもしれない。

写真の楽しみ方は、そこにどのくらいの情報が詰まっているかと言う観察ゲームの趣がある。軍事衛星で撮影される1枚の写真から、どの程度の推測が出来るかと言う道に通じるからだ(例えば兵舎に付属しているトイレの数で展開されている部隊の総数がわかる)この写真に限って言えば柳風の木の影から夜の電灯に浮かび上がる芸者さんの歩く姿を見てみたいなどという思いが先行する(笑

茨城縣物産名所案内には旧太田町の産品がかなり登場する。はしがきでは年額2億の産物と150万人の人口の茨城県を知ってもらうために作られたと書かれているが、最後は郷土民謡のコーナーがあり三越で演じたらしい。各地の出演者の名前を見ると源氏名で書かれた名前がずらりと並び、ほぼ、芸者さんであったと推察出来る。そういう時代だったのだなぁと感心してしまう(見てみたかったと思うのは筆者だけではないだろう(笑))

昭和8年は、ドイツにヒットラーの政権が出現し、日本は国際連盟から脱退した年と記憶している。固い話は別にして一次産業や二次産業の産品が主な出典物だった当時の茨城縣物産名所案内も楽しんで欲しい。

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