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‪でか木の家 永和工務店‬

     

    

ちょっとCMぽくなってしまったが、独自の断熱工法を開発した常陸太田市内田町にある住宅専業メーカーの永和工務店が行った内覧会の模様をお届けする。撮影では、おもいっきり遊ばせてもらった。

でか木の家 永和工務店
http://www.dekamoku.com/

札幌から移転して3年以上が経過している。札幌では仕事柄、北海道の住宅メーカーのPR映像を作らせてもらう機会が多かったが、茨城に移って来て住宅の有り様があまりに異なっているのに少なからずカルチャー・ショックを受けた。根本的な相違は雪にある。そのため瓦屋根は存在しない。雪が積もったら滑り落ちないし、仮に下の部分が凍って滑り落ちるようになったら雨樋が破壊されるし、極端な話、雪の重みで家が潰れてしまう事もある。毎年、屋根の雪下ろしで事故が起こる事も多いのである。また朝になったら除雪等の仕事が待っている(除雪で卒中になる人も多いのだ)

開拓が始まった明治の時期に本州スタイルの高床の家を造った所は老人や乳児の死亡率が高かった。昔の家は畳が主で床下は板の間が少なからず間が空いており、その上に畳を置く仕様だったために冬になると冷気が上がり室内の温度が異常に下がる。笑い話ではないが朝起きたら掛け布団の鼻や口の近くでは呼吸の湿気が薄い氷になって布団に張り付いているなんて事がシャレでなく起こったのだった(笑

いきおい、耐雪、断熱、熱効率、熱循環、デザインといった部分で住宅専業メーカーは技術を競争するという環境になる。在来建築系でも西洋建築系でも雪に対応する技術では百花繚乱といった趣がある市場だった。

そのような地域から、ようやく雪に逃れて茨城に来たとほっとしたのもつかの間で、暑い、湿気がきついなどが尋常ではない(笑)そうこう思っているうちに東日本大震災で外れた母屋の瓦を直す事になり瓦の雨に対するデザインと天井裏の通気の機能にヘェーした思いがある。所変われば発想が全然違うんだなとの発見だった(もっとも日本的には瓦が主流であるのだけど筆者は北国育ちなもので)

永和工務店の工法は木材を使用した空気を断熱に使うという手法だった。「二重床・三重壁工法」といわれる手法で実用新案登録されているものである。この工法は撮影する予定なので近々にブログでご紹介できると思う。本日は木造在来工法をベースに二重床・三重壁工法を使って完成した家をご覧いただきたい。

木材を豊富に使った造りと、涙がでるくらい指物系の意匠にこだわった仕様にご堪能いただけると思う。

余談となるがBGMも自作している。感じが出てると思いたい(笑

‪東海第二原発100万人一斉避難は不可能‬

     

    

福島第一原発の事故を受ける形で国の原子力災害時の住民の避難基準の見直しが行われた。原子力安全委員会の作業部会では3つ区域の新設が決定されたのである。その区域とは事故後直ちに避難する「予防防護措置準備区域」(PAZ)」→半径5キロ圏内。避難場所の設定や放射線測定(モニタリング)を行う「緊急防護措置区域」(UPZ)→半径30キロ圏内。放射性ヨウ素による被曝を防ぐ安定ヨウ素剤を配備する「放射性ヨウ素対策地域」(PPA)→半径50キロ圏内だった。この指針は全国50ヶ所にある原子力発電所の立地する地域防災のためである(つまり四号炉等が倒壊すれば地球的規模の損害が予想される福島第一原子力発電所の今ある危機を対象とするものではない)

ちなみに常陸太田市内の大部分が緊急防護措置区域(UPZ)に入る

茨城県の東海第二原発がタッチの差で重大事故を免れた経緯は過去ブログでご紹介している。
東海第二発電所運転再開についての質疑応答
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=269

そのためでもないが福島第一原発事故の経緯を見るにつけ新たな指針の策定と基準は理にかなったものだと茨城に居住する筆者には感じられる。ところが緊急防護措置区域」(UPZ)は行政にとって非常にハードルの高い物であることが判明して来た。東海第二発電所の半径30キロ圏内には百万人以上の県民が居住しており緊急避難が発動されると政令都市1個分にあたる人口がすみやかに移動しなければならなくなる。しかしそれは不可能だと橋本知事が明言したのが今回の定例会での質疑応答であった(出来る事と出来ない事をはっきり話す事ができる橋本知事は政治家として大したものである)

現在、茨城県には路線用、通園用、通学用のバスを全て合わせて7,080台のバスしか無い。1回に24万人しか運べないと知事は答弁なさっているが、実際には事故後直ちに避難する半径5キロ圏内の「予防防護措置準備区域」(PAZ)にいる6万人弱程度の人員が移動できるかどうかの話だと筆者は思っている。人為的ミスの事故ならともかく地震や津波等に起因する事故で茨城中のバスを1ヶ所に集中運営が出来るとは考えにくいからだ。つまり残りの百万人は自己判断で避難をするしかないという話に成る(最大限、避難システムが機能しても現状では75万人が自己判断を要求される)

このように考察を進めると茨城のような人口密集地域での原子力発電のシステムを稼働維持する事が妥当な選択なのだろうとの思いは強くなる。みなさんはいかがだろうか?

本格的な余震がまだ発生していないのが今である。悩みは尽きない。以下の過去ログで余震が最悪の場合、M8~M9.2と想定される東日本アウターライズ地震を述べている。

京都大学原子炉実験所‬
http://audience.studio-web.net/HDdiarypro/diary.cgi?no=288

‪京都大学原子炉実験所‬

     

    

気持ちの悪い余震が続いている。そこで本日は予定を変更して大阪府泉南郡熊取町にある‪京都大学原子炉実験所‬をお届けする。

東日本大震災の地震と津波が原因で全電源が消失したことにより福島第一原発が壊滅的な被害を受けてから、まだ1年ちょっとしか経過していない。当時を振り返ると東日本の放射能被害の実相は群馬大学の早川由紀夫教授が4月21日(2011年)に作成した放射能の広がり地図の初版が発表されるまでは東日本に対する視覚的な被害分布状況がわからなかった(この精力的な仕事に感謝する人は多かっただろう)

最新の早川教授の放射能汚染地図(六訂版)は
http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-473.html#comment2534

汚染ルートとタイミング(9月30日改訂)
http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-430.html

被害状況が見えて来たことでやはり気になるのがチェルノブイリ事故に遭遇したソビエト共産党の対策とその後の経緯であった。何も日本人がソビエトの人よりも放射能に対する耐性が強いわけではない。チェルノブイリで起きたことは日本でも起こると考えた方が理にかなっている。(放射能防御プロジェクトの木下黄太 氏は一貫してこの立場である)

そこで検索を重ねると‪京都大学原子炉実験所‬の今中哲二助教の「ロシアにおける法的取り組みと影響研究の概要」と原子力安全グループのチェルノブイリ新聞切り抜き帖(1988.2〜)が出て来た。

ロシアにおける法的取り組みと影響研究の概要
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Ryb95-J.html

チェルノブイリ新聞切り抜き帖(1988.2〜)
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/cher-2index.html

東日本大震災以前のエネルギー政策は原子力政策を推進し二酸化炭素を排出しないクリーンエネルギーの原発(いま聞けば冗談のようなスローガンだが)の発電総量を50%まで引き上げるのを国策としていた。ところが今中哲二助教が加わっている原子力安全グループは一貫して「原子力をやめることに役に立つ研究」をおこなっており、いわゆる熊取六人組と呼ばれる原子力利用の危険性について研究し、追究し続けてきたグループであった。

なぜ警告を続けるのか〜京大原子炉実験所・”異端”の研究者たち〜
http://video.google.com/videoplay?docid=2967840354475600719

ここに京都大学の学問の自由を優先する懐の深さをみる。1933年に京大で発生した思想弾圧事件である滝川事件(京大事件)の教訓を生かしている等と云々するつもりはないが、最重要国策に対する対抗軸の研究を容認するという他の官立大学ではありえない校風が‪京都大学‬にあるようだ(もっとも安全グループは科学とは離れた政治力が要求される研究予算の獲得や出世などとは程遠い環境であることは推測される)

そこで滞在していた和泉市から近いこともあり熊取町に出かけてみた(関西空港の反対側と言った方がイメージしやすいかもしれない)広報の担当者の方は茨城から来ましたという当方の話に驚いたようで構内はさすがに差し障りがあるが構外から撮影するには問題ありませんとの了承をいただいた。筆者的には撮影以前にどのような場所か見てみたかった。日の当たりにくい原子力安全グループの地道な研究活動により熊取は脱原発の聖地のような趣に世間の評価が変わりつつあるのが感じられたからである。

チェルノブイリ事故の経緯を新聞切り抜き帖を見る限り、当初は除染活動が主流であったようだが次第に土壌汚染に重きがおかれる推移を示しており強制移住地域などの具体的な数値が時間をかけて確定されている。これは政治的な判断が現実的な健康被害や健康被害の恐れに対して責任を取りかねる状況が顕著になってきため数値の変更がされたと筆者は思っている。

2012年3月25日に福島大学 環境計画研究室では放射線と被ばくの問題を考えるための副読本を発表している。副題として〜“減思 力”を防ぎ,判断力・批判力を 育はぐくむために〜 と発表されたこの副読本は福島大学の教員有志により作られた本だとアナウンスされている。これが非常に優れもので一読をお勧めする。情報を鵜呑みにせずに自分の頭で判断するための道しるべとして参考になると思う。

放射線と被ばくの問題を考えるための副読本
https://www.ad.ipc.fukushima-u.ac.jp/~a067/

リスクと正しく向き合う姿勢こそ偽情報に対抗して行く方法論であるということが上記の副読本から示唆を受ける。

それでは現在は土壌汚染問題が問題の核心なのだろうか。実は様相を変えた危機が潜んでいる。ここがチェルノブイリと福島の事故との大きな違いではないかと筆者は感じている。筆者的には継続している余震が最悪の場合、M8~M9.2と想定される東日本アウターライズ地震の前兆であるとの見解が非常に気になっている。

NPO法人国際地震予知研究会
http://iaep.sakura.ne.jp/

相次ぐ地震 今後の活動は?(NHK)
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/0315.html

週刊誌でも何回か取り上げられている国際地震予知研究会の予測の方法は大気重力波の観察を行って発生場所の日時や場所を推測するもので恐ろしいほどの的中実績がある。その実績から恐らく日本で初めての会員制地震予測情報の配信を開始したのではないかと思う。国際地震予知研究会は社会的責任として非常に大きな被害が発生する可能性がある予測は一般公開するという立場である(アウターライズ地震発生のカウントは始まったとのアナウンスが流されウォッチャーの間に衝撃が走った)

さてそのクラスの地震が発生したらどうなるのかというと今回の想定は高角度の正断層なので、断層の落差が、3.11の時のおそらく2倍以上になるという発表が行われている。この発表の意味する所は津波の高さが2倍となるということだ。そして震源域は千葉県東方沖から青森県までの東300数十kmの太平洋プレート上と見ている。となると想像力を働かせなくとも僅か数十センチメートルの差で津波の難を逃れた茨城県の東海第2原発はどうなるのだろうか、また巨大地震は揺れの継続時間が長く福島第一原発の4号路のプール建家は倒壊の危険性はないのだろうかとの疑念が自然に湧いてくる。

原子力安全グループに属している‪京都大学原子炉実験所‬の小出裕章助教の見解は明快で「‪4号機燃料プールが崩壊すれば、おしまいです‬」と述べている。

‪小出裕章:4号機燃料プールが崩壊すれば日本は"おしまい"です‬
http://www.youtube.com/watch?v=CezLuBZqd8U

つまり、チェルノブイリと違い原発推進も反原発も、脱原発も、あるいは土壌汚染問題も全てが吹き飛んでしまい、日本全域に人間が入り込む余地のない放射能汚染域が生まれるかもしれない危機的な状況がまだ克服されていない事を不承不承ながら認めなければならない時期にいるのである。

次回は、このコラムに関連して平成24年茨城県議会第一回定例会より政府・県の危機管理体制についての質疑応答の模様をアップする予定。

‪応神天皇陵と誉田八幡宮‬

     

    

大阪府羽曳野市誉田にある応神天皇陵に隣接している誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)に訪れた。

八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。八幡神社の祭神は応神天皇を主神として、宗像三神、神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇をともに祀っている神社も多い。(ウィッキペディア転載)

清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。どうやら前九年の役辺りから武士の守護神として全国に広がったような印象がある。もし清和天皇とその子孫にあたる清和源氏がいなかったらこんなに全国に普及したのだろうかとの思いが強い。八幡宮は欽明天皇(きんめいてんのう)32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。つまり北九州の豪族国造宇佐氏の氏神だったが、数々の奇端を現して、応神天皇と神功皇后が合祀されて大和朝廷の守護神とされた経緯を辿る。(ちなみに宇佐では宗像三神が主神のような位置に座っている)

このあたりから筆者の妄想が手を付けられないように膨れ上がる。欽明天皇は継体天皇の子息とされている。継体天皇は応神天皇5世の子孫であり5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは九州の磐井の乱に代表される地域国家間との大王位をめぐる混乱があったことを示唆している。

越前から上京した継体系の政権が安定した時に作られた八幡宮は、もしかして継体天皇の出目と政権の正当性を一気に解決する方便であったのではないかという疑念が小さくならないのだ。つまり越前の国津神系と同根の宗像三神(スサノウの子孫)と応神天皇が両方祭られるという出目と政権の正当性を解決した、あまりにもわかりやすい構図となっているからだ。そして天武天皇の時代にいたって古事記や朝廷のオフィシャル史書である日本書紀が完成することで、現在の皇室までに連なる継体系の古代史観が確定したのではないかという妄想史観を筆者は抱いている(笑

ちなみに常陸太田にも足跡を残している日本武尊の子が仲哀天皇で筑紫の熊襲退治の時に神の機嫌を損ね九州で没したという。同行していたお妃の神功皇后(氣長足姫尊)が軍を率いて妊娠したまま、御告げにより九州から海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)そのとき妊娠していた子どもが応神天皇で応神天皇の子が仁徳天皇という系譜となっている(伝説の時代である)

妙に驚いたのは羽曳野市の誉田八幡宮の所在地が馬場町であり、源頼義が岩清水八幡宮に勧請して出来た常陸太田市の馬場八幡宮の所在地が馬場町であるということである。このことから太田城に藤原氏が構えた以前より馬場町が存在し誉田八幡宮近くを本拠とした河内源氏の頼義が地名を太田に持ち込んだのではないかとの思いが強くなった。

資料では想像がつかない発見があるものだ。

‪安倍晴明生誕伝説‬(信太森葛の葉稲荷神社)

     

    

安倍晴明生誕伝説が残る大阪府和泉市葛の葉町にある信太森葛の葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ)をご紹介する。
http://www2.ocn.ne.jp/~kuzunoha/

1月の下旬から3月の初めまで大阪の和泉市葛の葉町にいた。あまり天候に恵まれず清和源氏系の撮影ができたのが2月の中旬からだった。近所にあった信太森葛の葉稲荷神社はたまたま晴れた時に撮影した物だが多くの和泉市在住の方々にお世話になり、いわばお礼を兼ねたアップとなる

大阪にきて勉強になったことは、どうも大阪というのは3つの地域の複合体ではないかとの思いが強くなった。つまり淀川から上にあたる北摂と淀川から堺までの河内、堺からしたの泉州という区分である。和泉市は泉州にあたり、隣の町は高石市、泉大津市、岸和田市があり地元の人が云う所の最も古い大阪の匂いを残すところという話になるらしい。

吹田市(北摂)に住んでいる長女の話では堺市から下は下町というニュアンスだったのであながち間違いではないようだ。どうも解りにくいのだが大阪弁のニュアンスも微妙に3地区では異なるようだ。また筆者が大阪に訪れるたびに驚くヒョウ柄のスパッツをはいているオバン軍団(笑)の多い所は河内のカルチャーということになるらしい。ともかくデーハー(派手)なのだ(笑

難波(河内)の道の真ん中を堂々と胸をはって歩く中国人観光客の一行もヒョウ柄のオバさんが同じく堂々と歩いてくると引き気味に道を譲る光景をみると河内のカルチャーも大した物だと妙に納得してしまう。

清明の話に戻ろう。安倍氏をさかのぼると遠祖は阿部氏と言われ孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である。飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出する。そのなかで一番気になっているのが阿倍比羅夫だ。比羅夫は658年から3年間日本海側を北に航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。そして663年の白村江の戦いで征新羅将軍として新羅と唐の連合軍に大敗したのも比羅夫である。前回のコラムで紹介した坂上田村麿が征夷大将軍として活躍する時代からさかのぼって150年近く前に北日本まで軍事行動を行っている(北海道には比羅夫という地名が残っている)史書を見ると水軍を率いていたようだ。

次に出てくるのが阿倍比羅夫の孫にあたる阿倍仲麻呂である。白村江の戦い以降の阿部氏は外交のプロとして活躍し始めた記録が残っている。阿倍仲麻呂は留学生として唐に渡ったと伝えられるがとうとう日本に帰ることができなかった。その同僚の吉備真備が陰陽道の書である『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという話が残っている。

烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。(ウィッキペデイア転載)

文殊菩薩ということで日本の陰陽道の元はインドが源泉であることが解る。そうなると映画や小説、コミックで描かれている神道の呪文による描き方はどうよという話になる。結構悩むのである(笑

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★★★ これからのイベント 2011年5月★★★ 
第32回常陸太田朝市

(前回の様子)
常陸太田市役所 5月15日
若宮八幡宮例大祭

(2009年の八乙女の舞の様子)
若宮八幡宮 5月15日
鯨ヶ丘夜市

(2010年7月の様子)
鯨ヶ丘ふれあい広場 5月28日

そば革命 伊勢又流「そばがき」調理法
オートラマの魅力
近所の会沢精米所を訪ねてみた
法然寺(肴町のお化け) 常陸太田都市伝説
指定文化財集中曝涼「来迎院」
指定文化財集中曝涼「青蓮寺」
指定文化財集中曝涼「西光寺」
指定文化財集中曝涼「阿弥陀堂」
若宮八幡宮 和田宮司の夜祭(よまち)講義と
稲荷神社の国宝級宝剣の公開
農の未来を語る会(大野和興さん講演会)
(コラムの掲載順は変動があります。また朝市、夜市や木崎トンネル工事等、過去コラムでの連載企画は予定に関係なく掲載する予定)



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